■軍制■

 

**長沼流**

 天明8年長沼流軍学を採用し、軍制改革を行い、下の如くであった。

  
先鋒、左右鋒、後殿

     ⇒一年ずつにて交代す。其の順、先鋒の翌年は後殿となり、其の翌年は左右鋒となり、其の翌年また先鋒となるなり。
       ※但し、奮戦に際して交代する限りにあらず。

  
中軍

 各隊の内訳。

  一、先鋒、一陣(陣将隊 一隊、番頭隊 三隊、合計⇒四隊

    L 陣将隊人員(○印は騎馬)
      ○陣将 一人(家老 千石以上)
      ○組頭 二人(350石以上)
      ○組士 四十人程(250石以上)
        寄合組 十人程
      ○與力 一人(100石以上)
      ○物頭 三人(300石以上)
        小頭 六人
        足軽 六十人
      ○御旗奉行 一人(200石以上)
        御旗差配與力 一人
        御旗差配 五人
        御旗 十人
        御旗助手 五人
      ○幌役 二人(300石以上)
      ○御使番 二人(300石以上)
      ○御目付 一人
      ○御用所役人 二人
        御用所附人 二人
      ○医師 二人
        御徒目付 二人
        金鼓役 八人
        黒鍬 六人
          ・・・計172人、外60人(組頭並びに組士介添之子弟)、168人(頭役譜代家来並びに諸士従僕概約)、総計400人程。

    L 番頭隊人員
        隊長 一人(800石以上)
        組頭 二人(300石以上)
        與力支配 一人(100石以上)
        組士 七十人(100石以上)
        與力 二十人
        物頭 三人(300石以上)
        小頭 六人
        足軽 六十人
        幌役 一人(300石以上)
        御目付 一人
        医師 一人
        金鼓役 六人
        黒鍬 六人
          ・・・計168人、外80人(頭並びに組士介添之子弟)、152人(頭役譜代家来並び組士従僕概約)、総計400人程。

       ※先鋒二番、三番共に之に準ずる。

   二、中軍(御本隊と言う即ち君公の本陣なり)
        近習頭 四人(300石以上)
        御小姓役 二十人(100石以上)
        御供番 四十人(100石以上)
        大組與力 十二人
        大組物頭 三人(300石以上)
        大組足軽 六十人
        御持筒頭 二人(300石以上)
        御持弓頭 二人(300石以上)
        御持差配與力 十二人
        御持弓銃足軽 百二十人
        徒士頭 二人
        徒士 四十人
        長柄頭 三人(300石以上)
        長柄之者 四十人
        御奏者番 二人(300石以上)
        御使番 十人(300石以上)
        御目付 五人(100石以上)
        徒目付 五人
        甲賀之者 五人
        御側医師 一人
        医師 五人
        御納戸役 一人(100石以上)
        御祐筆 二人
        茶道坊主 十人
        御厩別當 一人(100石以上)
        馬医下乗共 三人
        厩之者小頭共 二十人
        軍事奉行 一人(300石以上)
        與力 十五人
        軍事奉行添役 二人(300石以上)
        大銃打手 五十人
        幌役 五人(300石以上)
        大銃打手助手 三十人
        新撰組 三十人(諸芸秀俊之子弟)
         ・・・計562人、外110人(頭役並び諸士以上介添之子弟)、228人(頭役並び諸士の譜代家来従僕等概約)
          但し、平常の稽古には不出も実地出陣に臨めば書簡役用人御刀番賄頭付属の役々共凡そ100人位、計1000人という。

    三、輜重(しちょう※)隊(※軍隊の糧食・被服・武器・弾薬など、輸送すべき軍需品の総称)
        小荷駄奉行 一人(130石以上)
        廻米役 十五人
        兵糧方 五十人
        御普請奉行 一人(100石以上)
        武具奉行 一人(100石以上)
        御普請方役人以下 百人
        武具役人以下武器職人共 五十人
           ・・・計218人、外53人(介添及従僕共)、計271人。 

    外に護衛兵130人、総計、6200人


  御留主備

   一、若年寄
   一、三奉行
   一、御用人
   一、諸役所奉行並頭

     右支配之諸役人並諸附人諸同心之類

  猪苗代御留主備

       御城代 一人(500石以上)
       組頭 二人(250石以上)
       組士 十人(100石以上)
       御普請奉行兼足軽頭 一人(100石以上)
       足軽 五十人
       御目付 一人(100石以上)
       御普請方役々 十五人
           ・・・計80人、外30人(介添従僕譜代家来共概約)

 


**慶應4年3月の軍制改革**

 鳥羽伏見の戦いで洋式軍制を用いた薩長軍に破れた会津藩は慶応4年3月、これまでの長沼流から洋式軍制に改める軍制改革を行ない、これまで各隊さまざまな年齢が混在していた為足並みが揃わなかったのを年齢別に隊を分けた事により、戦力を最大限に生かせるようになった。

隊名 人数 隊長 編成・備考
白虎隊 300 総督:黒河内式部
隊長:日向内記等
16歳〜17歳
士中一番隊・二番隊/寄合一番隊・二番隊/足軽一番隊で編成。8/27日士中一・二番隊の生き残りを纏め「白虎士中合同隊」となる。(隊長は日向内記)この際、対象外であった15歳迄組み込まれる事になった。
朱雀隊 1200 総督:黒河内式部 18歳〜35歳。
士中一番〜四番隊/寄合一番〜四番隊/足軽一番〜四番隊で編成。長命寺の戦いで活躍した。
青龍隊 900 総督:黒河内式部
隊長:横山伝蔵
有賀左司馬ら
36歳〜49歳。
士中一番〜三番隊/寄合一番・二番隊/足軽一番〜四番隊で編成。国境守備に配された後、会津戦争で活躍した。
玄武隊 400 総督:黒河内式部 50歳以上。
士中一番隊/寄合一番隊/足軽一番・二番隊で編成。




  ■また、正規の隊以外に以下の諸隊が結成される。

隊名 人数 隊長 編成・備考
年少隊
(幼少隊)
100 安部井登 14歳〜15歳。
士中、寄合一中隊で編成。会津城下の戦いで多くが討死する。
奇勝隊 250 上田新八郎
(坂内八三郎)
藩の軍制改革の際、新規徴募された民兵部隊で、僧侶を中心とした隊
猪苗代方面・長命寺の戦いに参加。23日の戦いで隊長上田新八郎が戦死。
その後は、小頭の坂内八三郎が80名を率いて奮戦、開城迄に半数以上が戦死。
敢死隊 250 小原信之助
川崎尚之助
民兵隊(地方下人や百姓)。土屋鉄之助の進言により結成。
西郷頼母の指揮下で冬坂・赤井方面へ出撃、土佐の迅衝隊と戦い隊長小原が戦死し壊滅。この戦い以降は、川崎が指揮を執り、8/25の小田山の戦いで全滅。
中軍護衛隊 50 西郷寧太郎 13歳〜15歳の少年有志で結成され、城内守備を行ない落城まで奮戦
婦子隊 20 中野竹子 有志の女性によって結成された一隊で薙刀で涙橋辺りで奮戦。
正式に隊として結成されたものではなく、後年「婦子隊」と呼ばれた。
新練隊 380 土屋鉄之助 地方下人の子弟。三斗小屋・中峠で日光口の西軍と戦い、西軍の会津城下突入にさいしては城外で激戦展開。
会津遊撃隊 180 遠山伊右衛門 副総督横山主税麾下。追分峠・鶏峠に出戦し以後、赤谷口で西軍と交戦。仙台で降伏。隊中、諏訪常吉ら70人は箱館戦争へ参加
会義隊 70 野田進 徴募編成。白河の戦いに参加、8/25の天寧寺での戦闘に参加。
内藤等の入城に貢献し、その功績により隊士は上士に取り立てられた。
義集隊 80 辰野源左衛門
(金田百太郎)
辰野率いる本隊50名はは白河戰に参加。
金田率いる分遺隊は5/3片貝方面の戦闘に参加し、銚子で降伏壊滅。水戸の結城党と共に行動。士分三、夫卒八。
奇正隊 200 陣将:原田対馬
杉浦大右衛門
一番隊〜八番隊で編成。地方郷士隊。神保原から鶴ヶ城攻防戦で奮戦。
敬身隊 35 二瓶左内 神青龍隊の分隊名称。7人が仙台にて降伏。
義勇隊 80 秋月新十郎 慶応4年9月1日大内峠で布陣し、芸州・宇都宮藩士と交戦。
結義隊 130 渡部英次郎 越後口・片貝・加茂・谷沢・若松南部の大三次戦闘に参加。
隊長の渡辺は柳土手で戦死。
修験隊 80 町野源之助 領内の山伏によって組織された民兵隊。朱雀四番隊に付属。
純義隊 100 小池周吾 白河・只見・会津城下で奮戦。のち銚子において降伏。
順風隊 150 船橋捨蔵 西軍の進攻にそなえ急ぎ藩の有志で組織された部隊。長命寺の戦いで幹部のほとんどが戦死。
正奇隊 80 相馬直登 百姓による農兵隊。大内峠にて交戦。
書生隊 80 相馬孫市 京都日新館の書生たちによって編成され、鳥羽伏見の戦いで奮戦する。
信意隊 80 武川兵部 彰義隊の支援部隊で会津藩有志で組織。上野戦争に破れた後、会津へ走り、国境及び城下の戦いで奮戦。一部隊士は蝦夷地を目指す。
新隊 200 坂平三郎 一番隊〜八番隊で編成。徴募編成と思われる。
遊撃兵として活躍した。殊に会津城の攻防戦で活躍した。
進撃(遊軍)隊 150 小室金吾左衛門
武井柯亭
正規軍の補完部隊。
会津田島に布陣。城下の戦いでは佐川官兵衛の支隊として奮戦した。
新撃隊 70 天野由次郎 会津民兵隊。9/4の阿賀野川北側山地、長窪大谷間で交戦し敗走。
神青龍隊 140 五十嵐喜平太 会津戦争末期に組織された民兵隊。
ゲリラ隊として活動。仙台藩の降伏と共に一部投降して四散する。
新遊撃隊 100 佐藤織之進 会津藩の傭兵か?正規兵ではなく訓練も未熟。
与板・只見で交戦、水戸城攻撃の後、銚子で降伏。
誠志隊 180 坂平三郎 東部藩境でゲリラ活動に終始。戦意なく逃亡者が相次いだ。9/15仙台降伏に便乗し投降。
狙撃隊 25 竹村幸之進 山川大蔵に属した部隊で、籠城の際は本丸を固め、最後の攻防戦は城外にて奮戦。
築城隊 200 安部井寿太郎 陣地構築の為の土工兵と思われる。
鎮将隊 200 萱野右兵衛 水戸の結城党と組み、5/3の片貝戰以降、各地を転戦。隊士の3割が戦死。
力士隊 150 田中源之進 藩内の力士にて編成
朱雀足軽四番隊、砲兵二番隊と保成峠・天狗角力取山に出撃、その後赤谷へ50名を派遣。8/14の戦闘で組頭赤埴平八が戦死。
猟師隊 120 松田英之助 宇都宮戦の後今市で組織された和銃部隊。山岳戦を得意とし、閏4/19の食いr腹板倉付近の戦闘に参加。5/6には今市の戦いに加わり、7/28には宝珠山を占領、赤谷口へも一隊を派遣するなど奮戦する。
別楯隊 120 関清之助 会津藩寄合組有志で組織。8月5日阿賀川で交戦。
別撰組 40 春日佐久良 佐川官兵衛が藩士の中から刀槍の使い手を選抜し、斬り込み隊として結成。
鳥羽伏見以降に再編成され城下の戦いで奮戦する。
別伝習隊 70 工藤衛守 藩士と農兵で別伝習を受けた部隊(70名中50名が農兵)で大鳥の後軍に属し、9/3〜4の関山第二次戦闘に参加。
報国隊 60 不明 義勇隊と共に行動。大内峠の戦いに参加。
歩兵隊 80 辰野源左衛門 融通寺口の戦いで奮戦。
勇義隊 50 佐瀬義之助 内藤介右衛門下の八隊のうちの一隊。白河口勢至堂を守備。
赤心隊 40 仁科勇八? 敬身隊と同じく神青竜隊文隊か?ゲリラ部隊として藩境で戦い、仙台藩の降伏とともに3名が投降する。
砲兵隊 110 日向内記 鳥羽伏見で林隊・白井隊の残兵を統合したもの。当初は山川大蔵が隊長だったが、山川の若年寄就任後日向内記に交代。

 

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::参考文献::

志ぐれ草紙/小川渉(歴史春秋社)
別冊歴史読本 幕末維新三百藩諸隊始末(新人物往来社)