安部井 帽山(あべい ぼうさん)▼

 

・・・出生
(1778年〜1845年)
名は褧、通称は弁之助、字は章卿。帽山の他に芝浦と号した。
安田厚伯範光の長男として生まれ、藩儒・安部井澹園(名は鱗、文化4年歿、60歳)の養子となる。
・・・京都守護職以前
 享和3年(1803)司業添役雇勤として召し出され、翌年司業(儒者)となって家禄百石を継ぐ。
 始め古学を主としたが、文化8年(1811)藩命によって江戸にのぼり、幕府の林述斎・古賀精里らに師事して朱子学を修める。「日新館童子訓」や「新編会津風土記」の編集に加わり、同11年(1814)八代藩主容敬の侍講となり、後に班席は奏者番の上に進んだ。

 帽山は若い頃から寝食を忘れ学問に励み、山野に行くときなども必ず書冊を懐に入れていたといい、また、夜も数時間の睡眠しかとらず、枕に眠るのは月のうち幾日もなかったという。
 18年を費やして著した「四書訓蒙輯疏」30巻を献呈し、三十石加増された。
 弘化2年正月26日歿。享年68歳。大窪山に墓がある。

 

←大窪山にある帽山墓

:参考文献:

『幕末 会津藩』 歴史春秋社
『雄藩会津の家臣たち』 会津武家屋敷