会津藩が京都守護職を命じられると、その二年後の元治元年には精選組の隊員を命じられ、やがて国事掛に採用される。 広沢安任や秋月悌次郎らの指導を受けながら国事に奔走する傍ら、元治二年に藩学校京都日新館が設けられると、生徒に漢籍をも指導する事となる。
後江戸に戻り洋式築城学を研究、戊辰戦争では江戸引揚げ後も留まって、新政府軍の捜索を避けて医師に変装し、或は漁船に潜み敵情を探り、その後虎口を逃れて帰藩し江戸の状況を報告した。
時に奥羽諸藩の形勢定まらず、奥羽列藩同盟結成のため家老内藤介右衛門を正使とし政治を副使として各藩を遊説中し、奥羽列藩同盟の盟約がなる。上野戦争後、各藩の中或は盟約に叛いて西軍に降る者あるの報に接し7月諸藩に再度使者として向う。
政治の養祖母は政治に「汝今使命を奉ず必君命を辱むること勿らん、顧ふに威儀を修むるも亦士の務むる所なり、宜しく新に旅装を整ふべし」と告げ、政治は「謹て諾す、兒決して君命を辱かしめず、兒が粗服の如きは幸に念とする名勿れ、兒錦衣を胸中に蓄へり、唯伝家の名刀を帯ぶるを以て足れり」と答えた。
更に近藩より三度遊説を始め、仙台に到着すると石筵口の敗戦、四境の守備兵が陸続として帰城している報を聞き、藩に帰る事の難しさを知り、仙台沖に碇泊していた榎本武揚軍に参加、会津遊撃隊差図役として矢不来の激戦で戦死。
榎本武揚が「会津人は臆病で逃げやすい」と発言、それを聞いた政治はその翌日、新政府軍が矢不来に攻て来た際、防衛最前線で、兵を叱咤激励し、銃弾が驟雨のように降り注ぐ中を駆け続け、崩れかかる味方を何度も立て直し、敵の進軍を押し止めたが、敵の勢いを止めることはついに出来ず、退却を代わる代わる進言する部下や他隊の将に対し「卿等還りて、我が為に榎本氏に告げよ。今や我が隊、刀折れ、弾つき、よろず為すべき無しと雖も、僕は一歩も退かず、会津人士は果たして、怯臆性となりしか、果たして逃走を事とそるかと」と言い残し、必死の防戦を行い、遂に壮絶な戦死を遂げた。
後にこれを聞いた榎本は、「ああ、余、一たび失言をなして我が俊良を失へり」と長く悵恨痛惜をしたといい、
安部井の門弟である六角謙三が戦後、榎本に面会した際に、榎本は「安部井氏が難に殉じたのは、ほとんど私が殺したのと同じである。今に至るまで、甚だ自分の不徳を省みて恥ずかしく、またその人を追憶するに、惜しまれてならない」と語ったという。
また、榎本は「箱館戦争での戦死者中、最も惜しむべきは、会津の安部井政治である。彼の才幹、学識は他に類が無く得がたいものがあった。今、生きていたなら、明治政府にあって重要な地位を占めただろうに、
まことに惜しい人物であった」と語ったという。
また、養父仲八(51)は8月23日の戸ノ口原の戦いで戦死。
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