安達 藤三郎(あだち とうさぶろう)▼

 

・・・出生
(嘉永5年(1852)〜慶応4年(1868)8月23日)戊辰時歳。
米代一之丁に棲む家禄400石の小野田助右衛門の四男として生まれ、小野田家に居ながら安藤家を継いだ。
幼名は速橘(はやきつ)。諱は清武。母は中林助左衛門の長女みさ。
11歳で日新館に入学し尚書塾一番組に編入する。歳のわりに大柄で、赤黒い肌の丸顔で、目が大きかった。
・・・戊辰戦争以前
 祖父の小野田弥右衛門は、文化五年の樺太出兵の際、部屋住みながら志願して従軍し、帰還後は藩主容衆の御前に召され酒肴を賜っている。その為か、藤三郎も祖父の血を継いで、温和な顔立ちから及びもつかぬほど勇猛果敢な気性の持ち主で、日新館では文武両道に励み、何度か賞を賜っている。

 ある年の春4月8日、馬頭観音のお祭りの日があり、この祭りには農家馬ある者は之を競い飾ってその美麗を極める為、皆馬を曳いて来て、堂の周囲を乗り回し混雑していた。この祭りに、藤三郎は友と馬に乗ってお参りに行こうとしていたが、途中で酒に酔った百姓が馬で麦畑に入って踏み荒らしている話を聞いて「犯人と間違えられる恐れがあるから行くのはよそう」といって馬首を返してお堂にお参りせずに帰ってきてしまった。

・・・戊辰戦争
 戊辰戦争が起ると、藤三郎は白虎士中二番隊の所属となり、7月若殿喜徳が前線の士気を励ます為、福良へ出陣、士中二番隊はその護衛として従軍した。その後7月下旬戦況が押し迫ると、隊士達は藩に出陣の建議書を出す事とし、篠田儀三郎と共に藤三郎は萱野権兵衛の元に隊士を代表して出向いた。

 容保が滝沢村へ出陣することとなり、士中二番隊は容保に従軍するが、母成峠が破られると士中二番隊は滝沢村から戸ノ口原へ出陣、大野ヶ原で野宿、食糧調達に出た隊長日向内記とはぐれた隊士達は戸ノ口原で新政府軍と交戦し、負傷者を出しながら退却、この時藤三郎も重傷を負い、仲間に助けられて退却。
 更に小隊長等ともはぐれた一隊は嚮導であった篠田儀三郎が指揮をとり、新堀(戸ノ口原水洞)を通り飯盛山に出る。 この地にて他の隊士達と共に自刃して果てる。享年17歳。

::参考文献::
『補修 会津白虎隊十九士傳』 宗川虎次
『会津白虎隊』 歴史春秋社
 『史実 会津白虎隊』 新人物往来社