戊辰戦争が起ると、藤三郎は白虎士中二番隊の所属となり、7月若殿喜徳が前線の士気を励ます為、福良へ出陣、士中二番隊はその護衛として従軍した。その後7月下旬戦況が押し迫ると、隊士達は藩に出陣の建議書を出す事とし、篠田儀三郎と共に藤三郎は萱野権兵衛の元に隊士を代表して出向いた。
容保が滝沢村へ出陣することとなり、士中二番隊は容保に従軍するが、母成峠が破られると士中二番隊は滝沢村から戸ノ口原へ出陣、大野ヶ原で野宿、食糧調達に出た隊長日向内記とはぐれた隊士達は戸ノ口原で新政府軍と交戦し、負傷者を出しながら退却、この時藤三郎も重傷を負い、仲間に助けられて退却。
更に小隊長等ともはぐれた一隊は嚮導であった篠田儀三郎が指揮をとり、新堀(戸ノ口原水洞)を通り飯盛山に出る。 この地にて他の隊士達と共に自刃して果てる。享年17歳。
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