戊辰後の明治2年正月には、藩命により水島久米二と共に久留米へ遊学を命じられ、良く学んだ後東歸し、
のち明治5年米国留学し、同9年帰国する。
明治13年外務省に出仕し、外務権少書記生に任じられ、伯林に在勤し、同15年外務権少書記官に進み、同16年ロシアの公使、18年アメリカ公使となる。同25年外務大臣秘書官となり、同年外公官としてドイツに転任し、公使館一等書記官となり、同27年弁理公使に任じられ、オランダ公使となる。同32年特命全権公使に進み待命となり、同年4月外務省参与官を兼ね、33年スペイン公使となった。
明治35年にはスペイン皇帝親政式挙行の際、特派大使として参列を命じられ、同38年6月には勲二等瑞宝章を授けられ、翌39年4月1日には弁理公使として勲一等瑞宝章を受けている。
明治40年帰国し、スペイン公使を免じられ、以来無任所公使となる。
また、柴四郎、池上四郎と並んで、明治に活躍した会津出身の”四郎”『会津三四郎』の一人に数えられた。
明治43年12月28日歿。享年56歳。 墓は会津若松市の善龍寺。
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