赤羽 四郎(あかばね しろう)▼

 

・・・出生
(安政2年(1855)2月〜明治43年(1910)12月28日)戊辰時14歳。
赤羽庄三郎、知行350石の子として会津若松に生まれる。什の組は「二之丁組」で山川健次郎や柴四朗らと同じ什の仲間であった。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 戊辰戦争の際は、一度白虎隊に組み入れられるも、15歳以下は外された。しかし戦況が押し迫ってくると15歳以下も白虎隊に追加で参加を認められ、四郎も山川健次郎等と共に白虎隊士中隊に組み入れられた
 降伏直後の猪苗代謹慎中に、山川・水島等首脳陣に命じられ、山川健次郎、柴四朗、高木盛之輔、原マ三郎の4少年と共に、西軍の本営に行き藩主容保の安否を尋ねてくる様命じられ、9月末、謹慎所の猪苗代を抜け出し本営に行き、『藩主を案ずる余り、自分達だけの了見で尋ねて来たもので、参謀に合わせて貰いたい』として願い出た。
 接見したのは土佐藩の板垣退助の部下伴中吉という人物で、伴は湯島聖堂に学んだ人物であって、逆に旧知の水島・浮洲・米澤氏の安否を尋ねられたという。
 この事は、西軍総督本営の一部には「禁を犯して猪苗代を脱走したのは不屈至極であるから、厳罰に処するべきである」という意見があり、一部には「未だ年端も行かない少年達が健気にも主君を気遣って来たものであるから、武士の情誼に悖る事であり、宜しく慰撫すべきである」という意見があり、結局温情論が大勢を占めて赤羽等は、土佐藩兵等に護衛され猪苗代に送り返された。
・・・戊辰戦争後

 戊辰後の明治2年正月には、藩命により水島久米二と共に久留米へ遊学を命じられ、良く学んだ後東歸し、
のち明治5年米国留学し、同9年帰国する。
 明治13年外務省に出仕し、外務権少書記生に任じられ、伯林に在勤し、同15年外務権少書記官に進み、同16年ロシアの公使、18年アメリカ公使となる。同25年外務大臣秘書官となり、同年外公官としてドイツに転任し、公使館一等書記官となり、同27年弁理公使に任じられ、オランダ公使となる。同32年特命全権公使に進み待命となり、同年4月外務省参与官を兼ね、33年スペイン公使となった。
 明治35年にはスペイン皇帝親政式挙行の際、特派大使として参列を命じられ、同38年6月には勲二等瑞宝章を授けられ、翌39年4月1日には弁理公使として勲一等瑞宝章を受けている。
 明治40年帰国し、スペイン公使を免じられ、以来無任所公使となる。
また、柴四郎、池上四郎と並んで、明治に活躍した会津出身の”四郎”『会津三四郎』の一人に数えられた。
明治43年12月28日歿。享年56歳。 墓は会津若松市の善龍寺。

 

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::参考文献::
『会津会会報 第八号』 会津会
『若松市史 下巻』 会津若松市
『男爵山川先生傳』 山川男爵記念会