秋月登之助(江上太郎)▼

 

・・・出生
(天保13年(1842)〜明治18年(1885)1月6日)戊辰時27歳。
秋月登之助種明。田島代官・江上又八の長男として生まれる。本名・江上太郎。元御先備甲士。
父又八は南山御蔵入奉行で16石3人扶持。叔父には鳥羽伏見の戦いで白井砲兵隊に属して戦死した江上又四郎がいる。

丈け高く色白し、巨眼方面好箇の偉丈夫。

・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 会津藩京都守護職拝命により、武芸に秀でた者のみで編成された京都詰先備甲士として藩主容保の身辺警護にあたる。
 鳥羽伏見の戦いの後、大阪から紀州、日高郡小松村から和船で、志麻半島から汽船で横浜に慶応4年2月3日到着。梶原等と共に江戸に残り佐川主殿、内田衛守、米澤昌平、簗瀬克吉、原直鐵、石黒恒松の計6人と共に西郷頼母の許しを得て一人金二拾五両を貰い脱藩。藩への憚りより、全員改名し、江上もこの際秋月登之助と改名する。歩兵指図役竝に任ぜられ歩兵第七聯隊附となるが、のち大鳥圭介率いる伝習隊に入隊し第一大隊の隊長となる

後、総野地方の戦いに於いて秋月は伝習隊隊長となり、副長は土方歳三。石黒則賢は述懐の中で、藩士牧原文吾よりの伝聞として「土方は秋月の下に就くべき者ではない」としており、秋月も亦奇計ある者であった為、伝習隊の人望を得た為、総野の地に於いて、隊長を選挙するにあたり、伝習隊秋月に投票したものである。

 宇都宮の戦いの後、土方等負傷した兵を連れ会津に向かう。田島で伝習隊全隊の再編が行われ、第一大隊は三斗小屋方面の守備に就く事となり、松川、三斗小屋、板室で戦い、更に5月2日大田原城攻撃に参加、14日桧枝岐口守備に向う。
 21日石筵の戦いに参戦、23日、新政府軍が城下へ侵入した際、秋月は二の丸にて馬上から「君恩に報ずるのはこの時である。
 婦人は内へ、男は外へ出て戦うべし」、「たとひお女中たりとも卑怯な事は許しませぬぞ」と絶叫しながら遊軍を叱咤激励する姿を目撃されたのち消息がわからなくなっている。

・・・戊辰戦争後

戊辰後の消息は不明。
明治18年1月6日 行年44才。墓は会津若松市の興徳寺にある(秋月・原田・三原家合祀墓/墓碑に秋月の名前有)。

・・・史料で見る

七連隊に入るに及び、制定の服を用いさる時は濃紺の上着、緋縅のズボンを穿ち、胸間に紐長く呼笛を釣垂し、殊に容姿を顕著にして威名を歩兵隊の中に鼓吹し人望を博得せんとす。(戊辰実歴記事:鶏肋短編より)

←秋月登之助
※「写真で見る会津戦争」より
←秋月登之助墓(興徳寺)

:参考書籍:
『写真でみる会津戦争』新人物往来社
『幕末維新人名事典』新人物往来社
『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社
『会津会会報 第十八号(戊辰実歴記事:鶏肋短編)』会津会
『物語 悲劇の会津人』 新人物往来社