秋月 悌次郎(あきづき ていじろう)▼

 

・・・出生
(1824年〜1900年)慶応4年当時44歳。
丸山胤道の次男。故あって秋月姓を継いだ。
・・・京都守護職以前
19歳の時選ばれて、江戸昌平學に学び、才学を顕し、舎長となった。
その後学業を終えて会津に帰った後は、若くして日新館の儒者となるが、まもなく藩命にて関西の各藩を遊歴し、政治・風俗などを観察した。

桜田門外の変の際は外島の副使となる。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 容保が京都守護職を拝命し上洛すると、公用人に採用される。
 薩摩の高崎佐太郎と謀り、八一八の政変を成功させ、会薩同盟を結び、活躍するが、軽輩である貞次郎の活躍を良く思わない藩庁に嫌われ、蝦夷代官として左遷されるが、
 それでも貞次郎は京都の藩士たちを案じていた。

 慶応3年、急命により京都に呼び戻され、薩摩との友好回復に努力するが、この時情勢は変わっており努力は実らなかった。
 戊辰戦争では越後口で戦い、やがて籠城戰に入り、副軍事奉行として防戦を指揮したが、ついに降伏を決意。米沢藩を通じて、手代木と共に降伏の使者に立った。

 のち旧知であった長州の奥平に会津藩の処分の陳情と会津藩子弟の教育を依頼する。
・・・戊辰戦争後

 西国藩士によく知られる活躍をした貞次郎は、萱野権兵衛の従として小伝馬町の獄に移され、他の藩士よりずっと遅れた明治5年に赦免された。

 その後、左院小議生となり、五等議官に進み太政官七等出仕となったが、いくばくも無く会津に帰り母を養う。
母が亡くなった後、東京大学・高等学校等に出仕し、のち熊本五等高等学校の教授となった。
同じく熊本五等高等学校に在籍した小泉八雲と親交を持ち、「神様のような人」と言わせた

享年77歳。墓は東京の青山霊園にあり。

←秋月悌次郎 ←秋月悌次郎墓
    (青山霊園)

:参考文献:
『幕末維新人名事典』新人物往来社
『写真でみる会津戦争』新人物往来社
『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社