浅羽 忠之助(あさば ちゅうのすけ)▼

 

・・・出生
(天保2年(1831)〜明治30年(1897)11月9日)戊辰時38歳。
名前は茂徳。浅羽寛兵衛茂実の長男として生まれ、家禄100石を継ぎ、小姓頭として藩主容保に近侍する。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 慶応4年の鳥羽伏見の戦いの際も容保の側に居て、1月4日には容保の命を受け、加藤内記と共に戦場へ赴き、陣将田中土佐以下の諸将を慰労し戦況を視察した上で帰城した。後、容保が慶喜に連れられて東歸すると、容保が忘れた孝明天皇から賜った御宸翰を持って神保修理と共に容保を追って陸路江戸に向う

 鳥羽伏見の戦いで破れた兵達が江戸に戻ってくると、忠之助は閉門を仰せ付けられる。
 戊辰の役には軍事奉行添役として従軍し、また奥羽列藩同盟の時は藩命によって奥羽諸藩に使者となって活躍した。

・・・戊辰戦争後

 戊辰戦争後、謹慎後は容保と行動を共にし、宮司となった容保に従って日光東照宮に出仕した。
 明治30年11月病死、享年67歳。

・・・史料で見る

【会津戊辰戦史】
 我が公近侍浅羽忠之助、加藤内記を戦地に遣わし陣将田中土佐以下の将士を慰労す。

::参考書籍::
『幕末維新人名事典』新人物往来社
『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社
『会津戊辰戦史』
『浅羽忠之助之筆記』(会津戊辰戦争史料集掲載)