原田 対馬(はらだ つしま)▼

 

・・・出生
種龍、五郎右衛門、伊豫、対馬。諡は洪徳院殿。
幼年より勤学の褒賞を受け父祖の遺跡を相続する。

また、安政3年には対馬を巡って、神戸民治、高木豊三郎、多賀谷弥七の三人で刃傷沙汰が起こり、判決に3年掛かったという事件も起きている。

安政6年9月物頭となる。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
文久3年7月京都勤番となる。
元治元年の禁門の変にて蛤御門の応援となり、同年7月伊豫と改める。
滞京中請所出勤警衛春時々精勤の賞を蒙る。 慶應元年幕府徳川家茂上京の際の守衛となり、
同年10月若松へ帰着。慶應2年5月名前を対馬と改める。

京都詰番を命じられ、詰所出張、慶應4年3月若年寄となり、同年8月家老となる。

奇正隊の隊長となり、籠城戦に入ってからは西出丸守備となる。
・・・戊辰戦争後
 降伏後、対馬は取締の命を受け明治2年、取締精勤の賞を受け、並びに天朝より金子千疋下賜ある。この年、嫡子慶三郎幼年に付き、名代として対馬は兵部省へ出頭、同15日巡察使より取締申付けられ、並びに今後二十日間に必ず巨魁の者を捕縛するよう厳命を受ける。
 11月容大(慶三郎)に陸奥国三万石支配を仰せ付けられ、対馬は家老職是まで通りの心得を命じられる。

 明治3年執政職となり、名前を五郎右衛門と改める。同年4月に松平容大へ従五位下斗南藩知事、対馬には斗南藩権大参事の宣下があり、対馬は容大の名代として出頭する。

  明治4年正月筑前国へ下り、金龍寺に於いて五日間供奉読経し、先祖の墓参を行う。

  その後については、消息不明。

:参考文献:
『原田対馬伝』
『志ぐれ草紙』小川渉著 歴史春秋社