原 隼(早)太(はら はやた)▼

 

・・・出生
(1832年〜1868年)慶応4年当時37歳。
 原市之助利昭の嫡男で禄高は360石。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争

 白虎隊寄合一番隊の中隊頭となり、7月15日越後口へ出陣、赤谷口の激戦から新谷、津川口と連戦し、8月29日には舟渡の激戦を行う。9月11日に熊倉で激戦を行い、更に南に転じて塩川にて諸隊と合流し一ノ堰へ急行。
 9月15日一ノ堰にて激戦が行われ、この戦いで飛弾で右腕を砕かれたが屈せず、左手で刀を拾い、大声で隊士等を励まし指揮をとり続けるが、間も無く二弾目が飛来し、腰部に命中し倒れる。
 夕刻青龍隊士の杉浦佐伯や田中直江らの手によって大竹主計等と共に面川に収容されるも、出血多量の為翌16日に絶命する。

 墓は面川の泰雲寺、寺族墓の奥にひっそりと大竹主計の墓と並んで建てられている。 享年37歳。

 

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::参考文献::
「寄合白虎隊〜激闘の七十余日〜」堤 章
「会津人物事典(武人編)」小島一男
「写真でみる会津戦争」新人物往来社