広沢 安任(ひろさわ やすとう)▼

 

・・・出生

(1830年/天保元年〜1891年/明治24)軽輩広沢庄助の次男として若松に生まれた。通称富次郎。
李重・牧老人・淡煙・得岳・六十九種草堂主人・士遠とも号した。兄は安連といい幼名は富太郎と称した。

・・・京都守護職以前

 1858年(安政5年)29歳の年長であったが、藩よりの推挙により昌平校に入学、やがて舎長に就任。
1862年(文久2年)ロシアとの国境談判を仰せつかった幕府の役人糟谷筑後守の随員として奥州北部を経て蝦夷地に向かった。
この時の体験が戊辰戦後斗南移住を採択するきっかけとなった。

・・・京都守護職時代〜戊辰戦争

 京都守護職を拝命すると、安任は藩士等に先立ち事前工作を行ない、その後は公用方として諸藩・朝廷・幕府間との折衝に活躍する。八・一八の政変でも大きく貢献し、また禁門の変の際には孝明天皇を彦根へ移すという策を佐久間象山らと講じるが佐久間象山の暗殺により頓挫する。鳥羽伏見の戦いに敗れた後、広沢は江戸に残り総督府に会津藩の無実を主張するも、西郷に会う前に捕らわれる。獄中「囚中八首衍義」を詩吟する。

・・・戊辰戦争後

 明治2年釈放されると、謹慎中の梶原平馬や山川大蔵等と共に御家再興を願い出る運動を続け、下北に3万石にて容保の長男容大(幼名慶三郎)に松平家の相続が認められた。
(下北と猪苗代のどちらかを選ぶという選択肢があったとされるが、東京の政府当局の空気から反乱の意思があるかを確認する為である、または猪苗代で希望を出していたが政府にて受け容れられず下北をあてがわれたとするものなどもあり)
 下北と猪苗代を選択するとなった際に、広沢が随行員として下北へ行っており、藩士を食べさせていくのに十分だと判断し、猪苗代では多くの藩士を養うには到底足らず、未開の地に希望を託したと言われる。

 斗南藩庁が設置されると、
広沢は参事として山川・永岡等と斗南藩の政策に当たるなか、開墾ではなく、牧畜運営を構想し、明治5年に谷地頭に開牧舎を開き、ルノーとマキノンというイギリス人を雇い、牧畜の手法を学んだ。
 政府より二千三百九十町歩余を払い下げられ、資金を政府に借りながら、明治10年には軌道に乗り、かなりの利益をあげる事に成功し、東京府豊島郡淀橋村角筈(現在の新宿区三井ビル周辺)に広沢牧場出張所を設けた。

 また、南洋開発や陸奥運河の実現に力を入れたり、条約改正運動に加わったり、議会に立候補などもした。
明治24年2月2日(5日説もあり)インフルエンザにより東京にて62歳で死亡。

:参考文献:
『幕末維新人名事典』 新人物往来社