父、隼人は高田謹慎の際に病死。(母みさ、弟常四郎等を連れ斗南に移住し金田一村に永住した)
誠実で快活な性格で永岡は弟のように面倒をみた。
永岡の書生となり、永岡に私淑し、思案橋事件に参加する。
思案橋事件の際、誤って永岡を傷つけ、その傷が元で永岡が亡くなった為自責の念に苛まれるが、永岡よりの遺言で「軽挙を謹んで欲しい」と言われ思いとどまる。そして刑場では永岡の後を追える事、自責の念から開放される事から喜んで死を迎えたという。
『待て暫し我も後より続かまし同じ黄泉路を辿る身なれば』は辞世の句である。
事件首謀者として明治10年2月7日処刑される。享年24歳。
墓は新宿区源慶寺。
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