一ノ瀬 要人(いちのせ かなめ)▼

 

・・・出生
(1831年〜1868年)慶応4年当時38歳。
会津藩家老。家禄千三百石。幼名を伝五郎。名を隆智。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争

 京都守護職の時、容保に番頭として随行し、蛤御門の戦いに活躍する。
 元治元年天狗党の乱の際には隊を率いて出兵したが、天狗党が12月11日越前加賀で投降した為、伝五郎の隊は現地入りはせず、準備中で終わったが、藩よりの手当ては現地入りした隊のみに支給され準備中の隊であった一ノ瀬隊には支給されなかった。その為伝五郎は部下の為再三藩に対して支給を願い出たが認められず、部下に対して責任を負って辞職を願い出るが、恐縮した部下が生駒五兵衛に再勤願いを提出、しかし、伝五郎は引かず、再度の辞職願を提出、手を焼いた藩は江戸と会津の重臣に伺いをたてている。
 結局伝五郎の願いは叶えられず、家老一ノ瀬要人隆鎮が他界の為、要人を継ぎ慶応3年若年寄を仰せ付けられ千五百石を賜る。

 戊辰戦争では越後方面の総督となりこの年家老に昇進し、越後口総督に命じられ1500名を率いて出陣し各地に転戦。
 8月2日の戦いの後、佐川官兵衛等の勧めもあって、加茂に退き、翌日木本慎吾隊を率いて村松城を占拠、翌日新政府軍に奪い返され沼越街道に退却、加茂への進撃を行うが5日に新政府軍に加茂を占拠され、一ノ瀬等は佐取〜石間〜五十島を経由して攻防戦を行い、一路若松を目指すが入城出来ず、後、糧道を確保する為、城南に転陣、激戦が行われ、徳久村の戦いで傷を負い、桑原の病院に運ばれるが、22日に死亡。
 会津藩家老では唯一の戦死者。享年38歳。 墓は会津若松市の光明寺。

・・・史料に見る

【北国戦争概略衝鉾隊之記】
 暁五時頃、妙見に渡る。一瀬要人に大砲其他小千谷より持ち来りし器械を送り戦略を議すに、其頼むに足ざるを知りてまた河井継之助と議し宮本に転陣す。楠山兼三郎は会藩と不快を生じ故国に辞して還る。

【戊辰戦記結草録】
 時に小千谷出張一瀬陣将より、長岡に帰り待居すべきの命あるを以て暁長岡に帰り出兵を止む。継で一瀬陣将始め諸隊長岡に返す。
 (中略)
 (8月2日)…(佐川)軍監一ノ瀬陣将に謂て曰く、「此地を退き、加茂に屯し然るべし」と。(一ノ瀬)陣将曰く、「退く時は共にすべし、我何ぞ独り先退せんや。」(佐川)軍監又曰く、「桑名藩総督服部半蔵も巳に退きたり、願わくば止る勿れ」と。(一ノ瀬)陣将これに従う。

 

←一ノ瀬要人墓(会津若松市・光明寺)

:参考書籍:
『会津人物事典』 歴史春秋社
『幕末維新人名事典』 新人物往来社
『幕末・会津藩士銘々伝』 新人物往来社
『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』 新人物往来社
『会津戊辰戦争史料集』 新人物往来社