伊東 左太夫(いとう さだゆう)▼

 

・・・出生
(1826年〜1871年4月15日)戊辰時43歳。
名は祐順、寛堂と号す。図書とも称した。伊東慎吾祐辰(知行130石)の長男として生まれる。
・・・京都守護職以前
 幼い時より温厚穎敏にして学才に秀で、藩校日新館で学ぶとともに宗川茂にも師事。14歳で日新館の講釈所に入った。 藩から江戸の昌平黌に遊学の内命があったとき、学業は日新館で充分だといって辞退したという。家禄150石を継ぎ、儒者見習・用所密事頭取を経て大目付となる。

 安政元年5月当時水戸は俊才を多く輩出していた為、広沢安任と共に水戸に遊学し、藤田東湖を訪ねるが病の為逢えず、豊田典膳を訪ねると、豊田は「遠路特に来訪せられたるに微恙あるを以て面せさるは武士の礼儀にあらず予是より先導せん」と云い、共に藤田東湖の家を訪ね快談した。

・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 文久2年藩主容保に従って上洛し、同3年5月公用人に任命された。同年冬、帰国するに及び師、宗川茂既に死しており、同門の高弟安部井政治、永岡久茂、浮洲七郎、米沢昌平、高木友之進等、伊東を慕いその教えを受ける。
 戊辰の役には、家老梶原平馬らと共に米沢藩や七ヶ宿に赴いて米澤藩や仙台藩等と謝罪降伏について議し、また庄内藩に使いした。
・・・戊辰戦争後

 降伏後、大沢村に閉居して子弟を教育していたところ、明治2年秋、天山公の侍講として東京に召し出され、明治4年4月15日、心臓病のため急逝、46歳。聡明院英俊智達居士。墓は天寧寺にある。

 飯盛山で自刃した白虎隊伊東悌次郎(17)は、左太夫の二男。実父慎吾(73)も8月23日甲賀町口の戦いにて戦死。

 

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::参考文献::
『幕末 会津藩』 歴史春秋社
『幕末維新人名事典』 新人物往来社
『幕末会津志士伝 孤忠録』 広沢安宅著