▼伊東 左太夫(いとう さだゆう)▼
安政元年5月当時水戸は俊才を多く輩出していた為、広沢安任と共に水戸に遊学し、藤田東湖を訪ねるが病の為逢えず、豊田典膳を訪ねると、豊田は「遠路特に来訪せられたるに微恙あるを以て面せさるは武士の礼儀にあらず予是より先導せん」と云い、共に藤田東湖の家を訪ね快談した。
降伏後、大沢村に閉居して子弟を教育していたところ、明治2年秋、天山公の侍講として東京に召し出され、明治4年4月15日、心臓病のため急逝、46歳。聡明院英俊智達居士。墓は天寧寺にある。 飯盛山で自刃した白虎隊伊東悌次郎(17)は、左太夫の二男。実父慎吾(73)も8月23日甲賀町口の戦いにて戦死。
::参考文献:: 『幕末 会津藩』 歴史春秋社 『幕末維新人名事典』 新人物往来社 『幕末会津志士伝 孤忠録』 広沢安宅著