1862年容保が京都守護職を拝命すると、上洛して国事に奔走。
鳥羽伏見の戦いで、幕軍が苦戦し、錦旗が薩長に翻ったことを知ると慶喜に抗戦することの非を解き、東帰恭順することを進言したというが定かではない。
結果論として、慶喜等の東帰は修理の進言に寄るものだとする意見が藩士の中に広まり、過激派の中には修理を斬るべしとする声もあがり、修理と親交のあった勝海舟が修理の身を案じ、働きかけた為、さらに藩士の怒りを買い、修理は江戸三田下屋敷にて切腹。(惨殺されたとも)
享年29歳。墓は東京都港区白金の興禅寺。
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