梶原 平馬(かじわら へいま)▼

 

・・・出生
(1842年〜1889年)慶応4年当時27歳。
 家老内藤介右衛門信順の次男、兄が同じく家老の 内藤介右衛門、弟が彰義隊に入隊した武川信臣(三彦)
会津藩名家9家の一つ梶原家に養子入りし跡を継ぎ、梶原悌彦景武を名乗る。
・・・京都守護職以前
和田倉の江戸藩邸にて政務を取り仕切る。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 京都守護職を拝命した容保に従って上京。外交を担当し、幕府・諸藩間で活躍した。
 元治元年の禁門の変後の慶応元年24歳で若年寄を仰せ付けられ、翌2年3月には閉門仰せ付けられ帰国していた兄介右衛門を抜いて25歳で家老に昇進
 鳥羽伏見の戦いの起こった際には、幕府と対応策を練るため江戸に行っており、鳥羽伏見の戦いの勃発を知り、大阪に戻ろうとした時には、敗戦の報が入った。
 鳥羽伏見の敗戦後、藩の軍備の充実に力を注ぎ、藩士が会津へ帰ったあとも江戸に残り、銃火器の手配をし、
河井継之助や松平定敬等と共に蝦夷を経由し船にて新潟より会津に帰国する。
わずか26歳にて主席家老として奥羽越列藩同盟締結に尽力し、またスネル兄弟から武器調達を行い、新潟港管理など活躍。籠城戰では、容保の側で内政を担当した。

 アーネストサトウの手記によると、「梶原は、シャンペン・ウイスキー・シェリー・ラム・ジン・水で割ったジンなどを、またたきもせず、しりごみもせずに飲み干し、飲みっぷりにかけては、他の人々をはるかにしのいだ。彼は色の白い、顔立ちの格別立派な青年で行儀作法も申し分なかった」との事。
 また、上山藩士増戸武平の談によると「同人は若年ながら頗る人傑」であったという。
・・・戊辰戦争後

 戦後は、藩主容保が止めるのも聞かず山川大蔵の姉二葉と離婚し水野テイと再婚。梶原景雄を名乗り、
斗南の上市川村に居を構え、青森県庁庶務課長を務めるも2ヶ月で辞職。
 函館・根室に渡り根室にて明治22年3月23日死去。享年47歳。

 墓は北海道根室市の市営西浜町墓地。(会津若松市の泰雲寺に文骨した供養墓が有り)

 

←根室の梶原平馬墓
(写真提供:ノゾミ様)

:参考文献:
「会津藩に仕えた内藤一族」
「幕末維新人名事典」
「会津人物事典」
「写真でみる会津戦争」