萱野 右兵衛(かやの うへえ)▼

 

・・・出生

(1840年〜1872年)慶応4年当時28歳。
家禄五百石。

・・・京都守護職以前
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 物頭、町奉行、番頭を歴任したのち、戊辰戦争では、会津本郷の陶工達を率いて、越後水原奉行を兼ね越後戦争に活躍する。
 7月24日に三条にて行われた会津方諸藩士戦死者の追善供養弔が会津藩主催によって行われ、その際右兵衛は城主名代として出席している。
・・・戊辰戦争後

 敗戦後高田に謹慎1720人の旧藩士を藩老格として統括し、また、斗南への移住の責任者として尽力するが、のち越後戦争を共に闘った陶工達からの招きで本郷に移住し、陶土を砕く萱野水車を造り業とした。

 享年33歳にして病死。

 隊士思いで民にも親身に接したことから水原の民や、部下から慕われ、現在本郷観音山山頂に「萱野隊長之碑」などが元部下達によって建立されている

::参考文献::
『幕末維新人名事典』 新人物往来社