戦後猪苗代に謹慎中、秋月等と謀り西軍参謀である奥平謙輔に処遇を陳情すると共に、
藩の将来の為二人の少年を書生として教育してもらう事を懇願し成功する。
その二人の少年が、後の東京帝大総長となる山川健次郎と小川亮の二人であった。
東京謹慎中も藩の再興に尽力し、赦免後山川大蔵の妹操と結婚。斗南移住後は田名部役所に出勤。
廃藩置県後は弘前県の中属に移り、ついで松前福山開拓支庁長となるが明治6年辞し、東京に出て佐賀県令岩村光俊の推薦を得て同県の大属となるが、明治7年江藤新平の乱が起こり、先頭をきって斬り込み全身に剣をあびて倒れた。享年29歳。
墓は東京の谷中霊園にあったが、無縁墓として移動されてしまった。
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