小出 鉄之助(こいで てつのすけ)▼

 

・・・出生

(1845年〜1874年)慶応4年当時23歳。
会津藩士篠田覚左衛の子として生まれ、小出只五郎の養子となる。
義理の兄として、また親友として山川大蔵がいる。

・・・京都守護職以前
日新館に学び抜擢されて小姓となるが、辞退して江戸の古屋作左衛門に入塾し洋学を学ぶ。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 ある日、仲間と飲んだ帰りに揚屋に入れられ藩から帰国を命じられる。
 しかし、小出の才を惜しんだ古屋の勧めにしたがって脱藩
 古屋の働きかけにより西洋に留学し洋学を学ぼうと横浜に居たが、出航しない前に鳥羽伏見の戦いが起こり、鉄之助は藩を案じ艦を辞して親友の山川大蔵が日光口にいると知り、面謝し山川も小出の軽重を知る心根を称し、藩に罰を赦してもらうよう請い帰藩を赦された。
 帰藩後は、軍事方勤を命じられる。
・・・戊辰戦争後

戦後猪苗代に謹慎中、秋月等と謀り西軍参謀である奥平謙輔に処遇を陳情すると共に、
藩の将来の為二人の少年を書生として教育してもらう事を懇願し成功する。
その二人の少年が、後の東京帝大総長となる山川健次郎と小川亮の二人であった。
東京謹慎中も藩の再興に尽力し、赦免後山川大蔵の妹操と結婚。斗南移住後は田名部役所に出勤。

 廃藩置県後は弘前県の中属に移り、ついで松前福山開拓支庁長となるが明治6年辞し、東京に出て佐賀県令岩村光俊の推薦を得て同県の大属となるが、明治7年江藤新平の乱が起こり、先頭をきって斬り込み全身に剣をあびて倒れた。享年29歳。

 墓は東京の谷中霊園にあったが、無縁墓として移動されてしまった。

::参考文献::
『幕末維新人名事典』 新人物往来社