▼松平 容保(まつだいら かたもり)▼
(1835〜1893)慶応4年当時29歳。 会津藩主、美濃高須藩主松平義建の六男。幼名_之允。兄弟には兄に尾張藩主徳川慶勝、高須藩主松平義比、弟に桑名藩主松平定敬がおり、高須四兄弟と言われている。 会津藩松平容敬娘「敏子」との婚姻により養子となって第九代を継ぐ。元々蒲柳の性質で病弱であった。 正室敏子が19歳で亡くなった後、継室を迎えなかった。
1853年幕命により房総海岸の警備にあたり、条約の締結にも賛成した。 桜田門外の変の後、溜詰間の大名が召集され、水戸藩の去就について話し合いが持たれた際、水戸殿を討ってはならないとして幕府と水戸藩の調停に努め、幕府からも重きをおかれた。
1862年京都守護職を任じられ、公武合体派として孝明天皇の信も厚く、緋の衣や御宸翰を賜ったりなどした。 朝議参与となり、公武合体に尽力し、軍事総裁となるが、後辞任し京都守護職に復帰、天皇崩御後は薩長倒幕派の敵と目され、鳥羽伏見の戦いの際、徳川慶喜や定敬等と共に江戸へ東歸してしまう。 新政府より追討を受け、武備恭順の為会津に帰国した後隠居し、養子の喜徳に家督を譲り、会津戦争の際には、自ら滝沢峠まで赴いて提督するなどするが、1ヶ月の籠城戰の末降伏。
1869年側室佐久に嫡子「容大」が生まれ、家名の存続を赦される。 赦免後は、日光東照宮宮司となる。 また、孫娘「節子」が皇室に輿入れするなどしている。 享年59歳。墓は一旦新宿の正受院に埋葬されるが、後に会津若松市の院内御廟に改葬される。
:参考文献: 『幕末維新人名事典』 新人物往来社