武川 信臣(むかわ のぶおみ)▼

 

・・・出生

(1845年〜1868年)慶応4年当時24歳。
家老内藤介右衛門信順の三男。三彦(かずひこ)。
家老内藤介右衛門主席家老梶原平馬の実弟である。
信臣は温厚な性格で文武に長じており、特に和歌の道に通じていた。

・・・京都守護職時代〜戊辰戦争

 鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に帰った後、藩士の帰国には従わず彰義隊に加わり、別働隊幡随院分屯信意隊長として上野で戦い、敗れた後、江戸市中に潜伏中を密告され捕らえられる。
 場所は以前会津藩上屋敷であった
和田倉門の糺問局の獄に入れられ、隣室には公用方であった広沢安任がいた。
 会津藩士家老の弟という事で、拷問を受けるが節を守り、小伝馬町の獄中にて斬首。

獄中に詠んだ句
 「君と親の重きめぐみにくらぶれば 千引の石の責はものかは」
信臣の性格と拷問の様子が偲ばれる句だと思います。

 辞世の句は 「暫し世に亦き心を見すれども 散るにはもろき風のもみじ葉」
 享年24歳。

 遺体は会津藩御用商人だった中島屋忠次郎が引き取り小塚原回向院に埋葬され、墓と碑が建てられた、しかし話を伝え聞いた実兄内藤介右衛門が明治28・9年頃訪れたらしいが、その頃には墓の所在は不明となっており、現在も解らず住職も聞いた事がないということである。

 会津若松市の泰雲寺に家族の墓と共に墓が建立されています。

←泰雲寺にある武川信臣墓。

::参考文献::
「会津藩に仕えた内藤一族」
「幕末維新人名事典」