永岡 久茂(ながおか ひさしげ)▼

 

・・・出生

(1840〜1877)戊辰時29歳
永岡冶左衛門の子として若松城下に生まれ、通称は敬次郎、字は子明。号は磐湖・当肉楼主人。
父は治左衛門。久茂幼きにより、黒河内十太夫の第二子興八を迎えて嫡子とし、之を養父とした。

・・・京都守護職以前
 明敏豪邁、機略に富み、意気世を蓋うの概(おもむき)有り。
 幼い時、父に従い房州富津の戍営に居て、17歳で会津に戻り、日新館に入学、18歳で大学に及第し、才俊と称せられる。
 家を継ぎ、世録250石を襲く。
 藩命を以て江戸昌平校に入学、詩を善くし、数年で学業大いに進んだ。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 戊辰戦争が始まると、軍事に参与し、北越に赴き、長岡藩老河井継之助と謀議するなどした。
 奥羽越列藩同盟時には梶原平馬の片腕として同盟締結の為奔走。
 9月榎本艦隊が仙台沖に碇泊した際、籠城中の会津藩を救う為兵を100名程榎本より借り受けるが、西軍よりの投降勧告により兵は散り散りになり、
会津三絶と言われる「濤声到枕欲明天」という詩を詠んでいる
・・・戊辰戦争後
 降伏後は江戸にて謹慎を命じられる。
 謹慎後、会津藩の移封先として猪苗代と斗南の2つを提示され広沢や山川等が斗南を町野主水等が猪苗代を主張し譲らず、永岡は斗南を強固に支持し町野と斬り合いにまで発展し謹慎を受ける。この頃長州藩前原一誠等と知り合ったと思われる。

 のち
斗南藩権小参事となり斗南藩政に尽力し、大湊を商港として発展させる計画を立てるも成らず。
(永岡の権小参事就任については、山川が広沢に対して、放蕩で素行修らざる永岡を東京に置いては不安であるとして、逆に斗南のような僻地に置いたほうが良いのではないか?と相談している)

 廃藩置県によって廃藩となると、青森県大属に任じられ、田名部支庁長を命じられるが、程なくして辞職し東京に上京する。
 東京に出て
政府を弾劾する『評論新聞社』を設立し、また『中外評論』、『江湖評論』を続発し、頻り二政府を攻撃し、少しも仮借せず、その為全て発禁処分となる。
 当時の名士殆ど永岡を知らない者はなく、副島種臣、板垣退助等の諸氏等と最も親交があった。
 伊藤博文、井上馨等より政府よりの再三の仕官の要請に寓居を訪れるも応じず、永岡は慨然として同士者に対して、
 「薩長人、名を王政復古に名をかりて徳川幕府を倒し、反て政権を竊み、私利を貪り、苛斂誅求蒼生を塗炭に陥れ、天下の怨府と為れり、而して外国の侮慢を受ける日一日より甚だし、有栖川親王の建言中に曰く、維新の鴻基一朝にして土崩瓦解の勢ありと、島津久光公の献言にも亦曰く、皇国は終に西洋各国の奴隷と為ること昭ゝたりと、実に危急存亡の秋たる以て知る可し、且や我が藩忠節の士邦国の為に戦死したる者千数百人、而して今日の状斯の如し、実に徒死と謂ふべし、是れ豈袖手傍観すべきの時ならんや、既に言論以て之を矯正す可ならず、寧ろ力を以て政府を転覆するに若かず、彼の前原奥平等の意見も亦余と一致す」と言って、
永岡は旧知の旧長州藩士前原や奥平と共謀し、
秋月の乱等に応じて叛乱を起す事を約束し、明治9年10月29日、中根中原等と共に数十人と共に千葉に赴かんとして、小網町思案橋より舟に乗るのに際し、警吏に偵知され格闘となり、この際傷を負い捕えられる。翌10年1月12日傷が元で鍛冶橋監倉署にて死亡。 享年38歳。

 墓は今戸の称福寺に葬られたと伝えられ、ここで山川健次郎らによって追善供養会が催されたというが、現在墓石は行方不明になっている。

::参考文献::
『永岡、中根、中原、竹村、井口諸氏略伝』 会津会会報10号
『幕末維新人名事典』 新人物往来社