内藤 介右衛門信節(ないとう すけうえもん のぶこと)▼

 

・・・出生

(1839年〜1899年)慶応4年当時29歳。
家老内藤介右衛門信順の長男で、幼名近之助。
弟に同じく家老の
梶原平馬と、のちに彰義隊に入隊した武川信臣がいる。家禄は千七百石(のちに二千二百石)。

・・・京都守護職時代〜戊辰戦争

 禁門の変では、唐門を守り長州軍と激戦となるが、薩摩藩の応援により何とか撃退する。
元治元年4月4日(1864年)26歳で若年寄となるが、禁門の変の際、長州軍を撃退した後態勢を立て直すため退き、直ちに守りを固めなければいけない所を、薩摩藩に守備を任せた為、
閉門を仰せつけられ、若年寄を非職させられる。
 しかし翌慶応2年(1866年)9月若年寄に復職すると、同日
家老に昇進する。
 また、慶応3年2月、会津藩は守護職の辞職を幕府に申し入れるも聞き入れられず、信節は会津より上京し、
板倉を訪ね容保の一時帰国を了承させる。
 慶応3年12月、慶喜の下阪に伴い守護職屋敷を土佐藩に引渡し大阪に下る。
 鳥羽伏見の戦いでは大阪城にあって戦闘には参加していないが、枚方・守口方面に戦場巡見の為、山川大蔵等とともに出掛ける。
 慶喜等の東帰は信節も知らず、報告を聞き『是必ず訛伝ならん。然れども外に漏洩せば人心動揺せん。浪語すること勿れ』と口止めしている。
 江戸へは由良町に内藤家臣の墓があることから由良町を経由して帰った可能性が高い。

 同年5月藩主福良出張に際して同行し、7月白河口総督として西郷頼母の後を受け出発。のち
勢至堂口以北の陣将を務め、西軍城下侵入の報を受けると、全軍を引き連れ背炙峠を超え、東山を経て入場する。籠城戰では三の丸を守備
 9月19日軍議が行なわれ、梶原平馬・山川大蔵・内藤介右衛門信節等の計らいで20日早朝土佐藩に降伏の使者を出す事となった。
 22日の降伏の議では梶原平馬・萱野権兵衛等と共に藩老として着座し、容保の退席後萱野権兵衛より、家老・若年寄一同よりの嘆願書が手渡された。
 西軍が城下に侵入した8月23日、一族が面川の菩提寺「泰雲寺」にて集団自刃している。

・・・戊辰戦争後

 その後猪苗代に謹慎、のち藩主父子に従い東京へ行き、喜徳の謹慎する有馬藩邸にて謹慎し、明治3年5月謹慎が解かれる。
 斗南へ移住し再婚、五戸にて開拓・漢学の教授をしながら生計を立てる。
 また、明治9年の
復禄運動の代表として倉沢平次右衛門等と共に活躍し、明治32年享年60歳にて没。

 墓は青森県三戸郡五戸町愛宕後の光明山高雲寺。

←内藤介右衛門墓(五戸)

:参考文献:
「会津藩に仕えた内藤一族」
「幕末維新人名事典」
「写真でみる会津戦争」