野田 進(のだ すすむ)▼

 

・・・出生

(1843年〜不明)慶応4年当時26歳。
8歳で三等試学及第、10歳で一等試学及第、14歳にて講釈所試学及第する。
16歳の時、親善兵衛が隠居した為家督を相続。知行百石、外様組を命じられる。

・・・京都守護職時代〜戊辰戦争

 会津藩が京都守護職を命じられると、京都勤番を命じられ上京。文久三年(1863)帰郷の為京都を出発するが、途中三重で京都より八・一八の政変に備え呼び戻され再度上京し京都御所を警護する。
 翌年帰国するが、その翌年再度京都勤番を命じられ上京、更にその翌年帰国。
 しかし、京都の情勢が不穏であった為、再度上京の為出発するも、江戸で鳥羽伏見の戦いの勃発を知り、滞在を命じられ練兵場で旧幕府伝習隊にフランス式の練兵を学ぶ。その後幕臣の古屋作左衛門が信州へ出ると聞き、野田は古屋と行動を共にする事を決め、藩を離れ古屋と合流し、軍目に命じられる

 江戸を出発し中仙道鴻巣駅で新政府軍が熊谷に至ると聞き羽生陣屋に避難し敵の来襲に備える。
 その後、全軍上州に向って出発し梁田駅に到着し梁田戦争に参加し大敗を喫し会津へ敗走、古屋が会津入りする事を国元へ知らせる為、一足先に会津に入り、家老西郷頼母に面会し事情を説明する。
 全軍が若松に入ると、福良在陣の上田隊に合流を命じられ福良へ出発、上田隊長より水戸天狗党の動向偵察を命じられ白河へ入る。更に、棚倉藩の造反を探る為現地に赴き帰国。
 4/1には東方面機密御用を命じられ、白河を偵察、青龍隊や遊撃隊などが出陣すると市中鎮撫の為町会所を設け大田原へ間諜に出、白河の戦いに奮戦するが大敗、5/10会義隊の隊長として平士の上席に命じられる
 大谷地村に進撃し戦うが負傷、その後再度白河城奪還の為進撃するが奪還に失敗、横田陣屋、滝新田村に出張、中地村本陣内藤総督より西軍の城下侵入を聞き、全軍城下へ向けて出発、原村で大平口の原田総督と合流し背炙峠を越え、会津藩正規軍一千を入城を試みるが城は西軍に包囲されており無傷での入城を成功されるべく、二番新隊と共におとり部隊となり奮戦、内藤・原田軍の無傷入城を成功させた
 容保は野田の軍功を讃え、隊士をすべて上士に格上げしたという。

 籠城戦に入ってからも、城外で奮戦し、8/29長命寺付近で戦い、翌月5日材木町付近で戦うが敗退し熊倉へ行き、熊倉の戦いで敗退後、漆村へ帰陣し、塩川村へ退却し、高田の佐川隊に合流。永井野村で戦い、その後南会津で転戦するが、9/29降伏の報告を受け、10/8塩川謹慎所に到着し、高田藩御預となり、謹慎中の藩士等の教授を命じられ、新調局が設けられ、その任務にあたる。

・・・戊辰戦争後

  明治6年には第三大区小二五区石間小学校句読師となり、翌年下等訓導となる。翌8年公立石戸小学校中等訓導となり、同年12/14公立上戸谷渡小学校七等訓導となる。
 翌9年1月依願退職し、2月一等授業生となり、飯野小学校に勤務、6月石脊小学校に勤務、10月監事を兼任する。
 明治10年第十七区学区取締となり、12年福島県南会津郡書記十六等となる。翌年十七等となり、15年十四等となる。16年福島県南会津郡戸長となり17年南会津郡第二番小学区学務委員となり、11月依願退職する。
 明治20年2月福島県郡役所第一課臨時雇となり、4月5日依願退職、同月8日警察本部に勤め、21年7月依願退職し、10月大沼郡高田村外四ヶ村戸長役場用掛となる。翌22年郡役所筆生となり、大沼郡戸長となる。
 明治25年11月伊佐須美神社主典となり、30年伊佐須美神社禰宜となる。

:参考文献:
「福島県立博物館 歴史講座 シリーズ4 会津藩の諜報活動-会義隊隊長の回顧録を読む-」