大庭 恭平(おおば きょうへい)▼

 

・・・出生
(1830年〜1902年)慶応4年当時39歳。
天保元年江戸の会津藩邸にて生まれる。
大庭正吾弘訓の次男。名は機(はるか)、また景範、恭平と称した。号は松斎。
詩・歌・書を善くした。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
京師内外の状況偵察の為、尊攘浪士と交わり、木像梟首事件に関わり、上田藩に監禁された

慶応3年に王政復古により赦免され、戊辰戦争では越後口へ従軍。
彰義隊士坂本兵弥が暴虐を欲しいままにしていた為、恭平は坂本を尋問、返答に窮した坂本の首を刎ねた。
仙台を経て庄内藩に向う。

・・・戊辰戦争後

 恭平は会津藩領内で多発した新政府軍役人の暗殺を食い止める策として、若松にて巡察使として派遣されていた岡谷に嫡子「慶三郎」を藩主として再興を願いで、その布告があった後暗殺は止んだ。
 明治5年札幌の資生館という近代学校の初代校長となり、8日後には開拓使中主典と転じる。
明治6年青森県県官を短期間勤め、12月28日には若松県に出仕し、司法省判事補まで勤める。
 のち判事に補され秋田県にあったが揉め事を起し解雇され、新潟に勤務するもまた揉め事を起し、函館に移り属官となり、退官後はこの地に閑居し、詩文、和歌を楽しんだ。
 明治35年1月5日病にて室蘭で没。享年73歳。墓は不明。

:参考文献:
『幕末維新人名事典』新人物往来社
『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社
『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社