恭平は会津藩領内で多発した新政府軍役人の暗殺を食い止める策として、若松にて巡察使として派遣されていた岡谷に嫡子「慶三郎」を藩主として再興を願いで、その布告があった後暗殺は止んだ。
明治5年札幌の資生館という近代学校の初代校長となり、8日後には開拓使中主典と転じる。
明治6年青森県県官を短期間勤め、12月28日には若松県に出仕し、司法省判事補まで勤める。
のち判事に補され秋田県にあったが揉め事を起し解雇され、新潟に勤務するもまた揉め事を起し、函館に移り属官となり、退官後はこの地に閑居し、詩文、和歌を楽しんだ。
明治35年1月5日病にて室蘭で没。享年73歳。墓は不明。
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