佐川 官兵衛(さがわ かんべえ)▼

 

・・・出生

(1831年〜1877年)慶応4年当時37歳。
 会津藩家老。佐川幸右衛門直道の長男。初め勝と称する。
 天保2年9月若松に生まれ、会津藩の世臣なり。
 高祖直成勘兵衛といい、始め信州高遠にあり、藩祖保科正之に従い、食禄千石、遂に世臣たり、官兵衛は幼時より勇敢活発武術をよくした。

・・・京都守護職以前
 江戸勤務中本郷大火の際、幕府方の火消と刃傷沙汰に及び、2人を斬り、多数に傷を負せた。
 しかし事は相手に非があるということで示談で済まされたが、謹慎を申し付けらる。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 京都守護職を容保が拝命すると従って上京、幾ばくもなく物頭に挙げられ、禄六百石を賜わり、学校奉行に進む。
 元治元年藩士子弟を選んで
「別撰隊」が組織されるや、その隊長に任じられ、また「書生組」の統率を兼ねる。京都市中の警備にあたり、「鬼官兵衛」の異名をとった。
 鳥羽伏見の戦いが起きると、官兵衛は別撰隊を率いて林砲兵隊と奮戦、右目に負傷したが屈せず、慶喜はその働きを感賞し、
官兵衛を伏見口の軍事総督としたが、この時には幕府軍は勝機を失った後であった。

 戊辰戦争では、越後口防禦の任につき、朱雀四番隊長として越後に向かった。官兵衛は河井等長岡藩兵と共に戦い、6月軍事奉行頭取に命じられる、長岡再落城後召還せられ、若年寄に任じられ、幾ばくも無く
家老に進められ、禄四百石を加増され、軍事を委任せらる。
 籠城戰中、決死隊を組織し奇襲を掛ける策を立てるが寝過ごし大敗北を期し、その後も兵糧が欠乏する城に精兵を率いて城外に出て、敵軍を撃破兵糧を城中に運び、そのまま城外にてゲリラ戦を続ける。
 鶴ヶ城が降伏した後も、南方にて連戦、秋月や手代木の説得にも応じず、抵抗を続け、容保よりの命によって、やっと降伏する。
・・・戊辰戦争後

 謹慎後は、若松にて従容自適な生活を続ける。
 官兵衛性質質朴剛直、事に当たり果断又能く衆を愛す、故を以て上下相和し皆為に死せんことを願う。
 明治7年征韓論が起るや、川路大警視は巡査を旧会津藩に募る、官兵衛逡巡して決せず、使者之を促す。遂に子弟に擁せられ藩士三百人を引き連れ東京へ出て巡査となる。
 
西南戦争が起ると巡査隊を率いて出征し、豊後口より進み二重嶺の賊塁を攻めんと欲し、警視局徽號の指揮旗に勝軍の二字を自書し、姓名を彫った正宗刀を携え、余品等は之を寓居に託し3月18日坂梨を発する。
 蓋し死を決するなり、既にして開戦衆に先立って進む、忽ち銃丸左腕貫く、自ら手巾を裂いて之を包み、勇気倍々奮う、復た二丸を受け遂に斃れる。部下の士此元を収めて帰る行年47歳。

 墓は大分県松栄山護国神社境内警視局墓地と、喜多方市長福寺にある。

 父、直道は既に戊辰の乱で会津で戦死し、弟主殿は鳥羽伏見の戦い後に小池周吾説得の帰り江戸で同士討ちに遭い死去、嫡男直亮は陸軍大尉となり日露の役満州孟家房に戦死した。

 

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::参考文献::
『幕末維新人名事典』 新人物往来社
『若松市史 下巻』 若松市役所