謹慎後は、若松にて従容自適な生活を続ける。
官兵衛性質質朴剛直、事に当たり果断又能く衆を愛す、故を以て上下相和し皆為に死せんことを願う。
明治7年征韓論が起るや、川路大警視は巡査を旧会津藩に募る、官兵衛逡巡して決せず、使者之を促す。遂に子弟に擁せられ藩士三百人を引き連れ東京へ出て巡査となる。
西南戦争が起ると巡査隊を率いて出征し、豊後口より進み二重嶺の賊塁を攻めんと欲し、警視局徽號の指揮旗に勝軍の二字を自書し、姓名を彫った正宗刀を携え、余品等は之を寓居に託し3月18日坂梨を発する。
蓋し死を決するなり、既にして開戦衆に先立って進む、忽ち銃丸左腕貫く、自ら手巾を裂いて之を包み、勇気倍々奮う、復た二丸を受け遂に斃れる。部下の士此元を収めて帰る行年47歳。
墓は大分県松栄山護国神社境内警視局墓地と、喜多方市長福寺にある。
父、直道は既に戊辰の乱で会津で戦死し、弟主殿は鳥羽伏見の戦い後に小池周吾説得の帰り江戸で同士討ちに遭い死去、嫡男直亮は陸軍大尉となり日露の役満州孟家房に戦死した。
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