西郷 頼母(さいごう たのも)▼

 

・・・出生

(1830年〜1903年)慶応4年当時38歳。
西郷近思の長男。家禄千七百石。
幼名は竜太郎。幼少から学問を好んだ。

・・・京都守護職以前
側役小姓頭、番頭を経て33歳の時家督を継ぎ家老就任。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 容保が京都守護職を拝命した際、田中土佐と共に江戸に上り、「火中の栗を拾うようなものだ」だと諌めた為家老職を免じられる

 応4年鳥羽伏見の戦いが起こると復職、世子喜徳の執事となり、江戸に上り会津藩邸の後始末をして会津へ帰国する。恭順を主張し、戦う事の非を解き続けた。

 戊辰戦争では、白河口総督に任じられるが、戦術の不味さから西軍に白河城を奪われ大敗し、その責を負って罷免される。
 また、頼母の一族郎党21名は8月23日西軍の城下突入の日に自宅にて自刃して果てている。
 藩論が降伏に傾くと、「責任をとって殿も家臣も一同死ぬべきである」と強固に主張し、他家老の怒りを買い、刺客を差し向けられる事態になり、容保は頼母の身を案じ、城外へ萱野への使者として出す。
 頼母は嫡男吉十郎を連れ仙台藩に向かい、そのまま榎本海軍に身を投じ、箱館戦争に参加、のち降伏。
・・・戊辰戦争後

 降伏後、長男吉十郎を箱館の沢辺琢磨に預けるが、明治12年病死。
 頼母は唯一の肉親を失った後、志田貞次郎の三男四郎を養子に貰う。(のちの「姿三四郎」のモデルとなった人物)謹慎解けた後、伊豆にて里人の指導にあたる。
 この頃、西郷の姓を本姓の保科に戻している。
 容保が日光東照宮の宮司になると、頼母も日光の称宜となり、容保を補佐した。
 のち若松に帰り霊山神社の宮司となりその傍ら教職につき生徒の教育にあった。

 享年73歳。墓は会津若松市の善龍寺。

 

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:参考書籍:
『会津人物事典』歴史春秋社
『写真でみる会津戦争』新人物往来社
『幕末維新人名事典』新人物往来社