・・・出生 |
(1827〜1877)慶応4年当時41歳。
食録三百石高津平蔵の次男として若松に生まれ、通称仲三郎。 |
・・・京都守護職以前 |
豪胆磊落、容貌魁偉、古武士の風格有りと言われ、日新館に学び、特に宝蔵院流の槍術は藩内屈指の達人であった。少壮の頃は、他藩を遊歴して槍の練磨に努めた。 |
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争 |
容保が京都守護職に任じられると、別撰隊士として上洛する。慶喜が大阪へ下阪する際、薩摩藩士揖宿と斬り合いになり惨殺する。鳥羽伏見の戦いでは重傷を負い東帰。療養所となっている芝の会津藩邸を訪れた慶喜を面罵し、同席した小笠原長行が取り成し事なきを得る。
戊辰戦争では越後口にて遊撃隊に属して参戦。籠城中も城外で戦い続けた。 |
・・・戊辰戦争後 |
戦後戦没者の埋葬に尽力し、町野主水らと遺体の埋葬を嘆願し続け、許可されると穢多(エタ・幕末まで士農工商の下に置かれ、年貢の賦課を受けなかった階層)達に遺体を丁寧に扱うよう領内の商人などから三千両を工面し配布する為、穢多に変装して交わった。
旧会津の軍政官であった旧越後藩士久保村文四郎が遺体埋葬地に高津達が建立した「殉難之碑」と拝殿を撤去させ、また圧政を敷き、それに激怒した高津は久保村が罷めて越前へ帰る途中の束松にて、同じ旧会津藩士伴百悦等と共に殺害し、投獄されるも脱獄する。
その後中原成業と変名し、永岡等と共に思案橋事件に参加し斬首される。享年50歳。
墓は新宿区源慶寺。(墓碑銘は中原成業となっている) |
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←左写真中央の欠けているのが高津仲三郎墓。 |
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