竹村 俊秀(たけむら としひで)▼

・・・出生
(1845年〜1877年)慶応4年当時23歳。竹村助兵衛の長男、通称幸之進。日新館の俊才。
山川大蔵・小出鉄之助とは親友であった。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 戊辰戦争の奥羽越列藩同盟では仙台藩使節玉虫左太夫と対応して感服させ、籠城戦にあっては選抜されて狙撃隊の隊長となり、本丸に屯在し、終始山川大蔵に専属し、籠城戦を支えた。狙撃隊は僅かの兵員半小隊に足らず、しかしてその隊士には角田秀松、下平秀治、柳田留六、河田圭介等の如き壮年の諸士を選抜して組織した隊で、其の精鋭振りでは城中の諸隊で右に出るものはなかった。
 又、隊士は皆よく竹村に心服していて、狙撃隊は籠城中山川大蔵の指揮を受けよく防禦し、また時々城外に出ては激戦を行い、8月23日長命寺裏進撃に、城中の精鋭の将士は多くは之に参加し、
春日佐久良も山川・竹村の親友であったが、此の戦いで戦死した。ただ狙撃隊だけは加わらず城の防禦に努めた。
・・・戊辰戦争後

 戦後斗南藩に移住、青森県開墾掛頭取となったが、県官と対立し上京、旧会津藩士永岡久茂と交わり、兵を挙げようと謀る。

 永岡久茂の指示で長州藩士前原一誠等と会い、思案橋事件の翌日帰京して浅草に潜伏している所を逮捕され
連座し斬罪となる。享年32歳。

 墓は新宿区源慶寺。

 

←左写真一番左が竹村俊秀墓。

:参考書籍:
『幕末維新人名事典』 新人物往来社
『竹村俊秀君の事蹟』 会津会会報10号