十倉 綱紀(とくら つなのり)▼

 

・・・出生

(1850年1月20日〜年)慶応4年時19歳。
若松出来新町(現在の御旗町)に生まれ、新八と名づけられる。父親は新助義方、母は春子(佐藤氏女)。
十石二人扶持。初代十倉重成は山形藩主であった保科正之に使える。
 九人家族で、曾祖母、祖父、祖母、父、母、弟(治八)、弟(新蔵)、弟(八五郎)の構成。
 新八(綱紀)は筆を取り書を見る事を好み、唐人凧を揚げて遊んでいた。

・・・京都守護職以前
 8歳になると、南学館に入学する。(新八の家は下士身分だった為日新館ではなく南学館に入学する、12歳で読書・習字共に藩制規定の学科を修了し、学問・武芸を兼修する事となる。
 新八(綱紀)は学校に学友と一緒に登校するとき、一言も話さずに歩いき、飴が好きで時々飴を舐めて無言で歩いたので、友人は「飴地蔵」というあだ名を新八(綱紀)につけた。
 15歳の時、父新助が享年45歳で死去するも、11月に日新館講釈所の試験に合格して入所した。
(この時一緒に入学したのは3学館を通じて5名で、新八以外は日新館素読所よりの合格者であった。)
 慶応元年、16歳になると推挙されて宅教授(学童を武士の家宅に集めて教授する役)となり、また検地方見習に補せられ、18歳まで3年間の毎秋検地頭に従って、農村を巡回していた。 
 慶応3年18歳で、母の姪である邦子(佐藤氏女)を嫁に貰う。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 鳥羽伏見の戦いが起ると、江戸の警備のため御備隊として江戸へ登るも、途中敗戦の報を受け昼夜兼行にて江戸に赴き、和田倉の藩邸に到着するが、のち会津帰国となる。
 帰国すると、祖父は病気のため隠居し、綱紀が家督を相続すると事なり、新八は除隊させられ文官の身分に処されて、検地方の職に付く。
 6月になると、新発田藩の動向が怪しく、上田伝治が新発田へ動向を探るべく赴くこととなり、新八は上田に随行する事となるも、要領を得ず7月1日会津に戻る。

 赤谷口の急が伝えられると、特命を受け津川へ上田伝治と共に向かい、会津兵の兵力不足の為、上田を隊長に郷士や猟師等を募集し20人余りの隊となり、そこに高崎藩・水戸藩脱藩の労使たちが加わり40人弱となり、戦いに加わり奮戦する。
 赤谷では弟治八が寄合白虎隊として宿陣しており、再会を果たす。津川より舟渡、熊倉を経て、のち城南戦の一ノ堰の戦いに参加し、大内宿に滞陣中に降伏の悲報が届き、綱紀は塩川に謹慎の身となる。 
 塩川から越後高田へ護送されるとき、『会津国替名残歌』を作ったとして有名
・・・戊辰戦争後

 塩川の謹慎所から越後高田藩へお預けとなり、高田では約20名の学習生を集め漢学塾を設け、南摩綱紀を師とし、桜井政衛を塾長として学習に励んだ。
 罪を許され、高田より会津に戻る。しかし、叔母の嫡男勝之助(※1)が戦死した為、家名を継ぐものがいなくなった為、綱紀の妻を実家に帰して欲しいとの要望により妻邦子が佐藤家に戻る。 (※甲賀町口で戦死し、ますらおの美少年と謳われた佐藤勝之助の事)

 綱紀等も明治3年に斗南に陸路移住、12月7日七戸三本木に移り、新渡戸伝氏の別荘の一部を仮住まいとするも、のち町屋の貸家を借り酒造を行う。綱紀は子供達を集め手習いを教える。
 のち、函館に渡り、占いにて生計を立てるも、直ぐに客が来なくなり、土木工をするも、その後少羅卒として採用される。

 明治7年等外二等出仕に命ぜられ、函館支庁民事課勤務を命じられ、8年等外一等出仕、10年函館支庁会計課用度係に任じられ、同年12月開拓十等属に任じられ、19年には判任官六等に叙せられるも、20年非職を命じられた。同5月瀬棚郡の初期に任ぜられ、判任官六等に叙せられ第一課長となる。明治24年奏任郡長となるも非職を命じられる。
 明治26年退職し、明治27年大中山村総代に選任され、役員を歴任。
 のち退職し、昭和7年1月29日享年83歳にして死去。

 墓は北海道亀田郡七飯町の共同墓地にある。

::参考文献::
『会津藩士 十倉綱紀伝 「八十寿の夢」』
『幕末維新人名事典』 新人物往来社