塩川の謹慎所から越後高田藩へお預けとなり、高田では約20名の学習生を集め漢学塾を設け、南摩綱紀を師とし、桜井政衛を塾長として学習に励んだ。
罪を許され、高田より会津に戻る。しかし、叔母の嫡男勝之助(※1)が戦死した為、家名を継ぐものがいなくなった為、綱紀の妻を実家に帰して欲しいとの要望により妻邦子が佐藤家に戻る。 (※甲賀町口で戦死し、ますらおの美少年と謳われた佐藤勝之助の事)
綱紀等も明治3年に斗南に陸路移住、12月7日七戸三本木に移り、新渡戸伝氏の別荘の一部を仮住まいとするも、のち町屋の貸家を借り酒造を行う。綱紀は子供達を集め手習いを教える。
のち、函館に渡り、占いにて生計を立てるも、直ぐに客が来なくなり、土木工をするも、その後少羅卒として採用される。
明治7年等外二等出仕に命ぜられ、函館支庁民事課勤務を命じられ、8年等外一等出仕、10年函館支庁会計課用度係に任じられ、同年12月開拓十等属に任じられ、19年には判任官六等に叙せられるも、20年非職を命じられた。同5月瀬棚郡の初期に任ぜられ、判任官六等に叙せられ第一課長となる。明治24年奏任郡長となるも非職を命じられる。
明治26年退職し、明治27年大中山村総代に選任され、役員を歴任。
のち退職し、昭和7年1月29日享年83歳にして死去。
墓は北海道亀田郡七飯町の共同墓地にある。
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