浮洲 七郎(うきす しちろう)▼

 

・・・出生
(天保10年(1839)〜慶応4年(1868)閏4月21日)戊辰時30歳。
若松城下に生まれ、兄に庄之助がいる。
・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 日新館に学び、のち抜擢されて昌平黌に遊学したが、慶応二年藩命によって京都に上る梶原平馬の顧問として動向し、間も無くしてから江戸に戻り勉学を続けた。
 慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いが起こると、七郎は報を聞き他の藩士たちと共に急遽上京し、軍事参謀兼隠密を仰せ付けられ、直ちに事後の作戦を計画するが、意気消沈していた幕軍の兵達を収集することが出来なかった。
 慶喜たちが東歸したのを知り、仕方なく江戸に戻り、箱根の峻険を境として決戦を試みようとするが容れられず、暫く江戸に潜伏した後、日光に逃れて大鳥圭介率いる旧幕府軍に身を投じてその参謀となった

 その頃山川大蔵は田島にあって日光口の守備に当っていた、閏4月21日大鳥圭介は山川大蔵と連絡をとり、共に進軍し日光に篭る新政府軍を攻撃した。
 だがここでも利あらず、七郎は胸に貫通の銃創を負った。山川大蔵は七郎を助けようとしたが七郎は逆に大蔵の身を案じ、新政府軍の土佐兵の中には我を知る者も多い、もし敵の手に落ちるようなことにでもなれば死後の恥となると言って、速やかに首を斬り携えて去ってくれる様頼んだ。
 新政府軍の追撃は急で大蔵は暗涙を飲みながらその言葉に従って首を斬ったものの、これを携えて退く暇はなかった。
 享年30歳。墓は会津若松市の大窪山墓地にある。

 七郎は生前「我に益する三友あり、一は永岡久茂の”智”、二は米沢昌平の”直”、三は高木友之進の”勇”これなり。我平生これを慕って及ばず」と語っていたという。

・・・史料で見る

【南柯紀行】
 宇都宮落城以来板倉候父子寺院に潜居せられし由、使を以て予を招かれたれば直ぐに行きて逢いしに、
格別の卓見も無く唯此地にて干戈を動かしては廟前へ血を濺ぐに至り、忠誠を却って水泡抔と旧に依て因循の輪なり、
是れ尤一山の僧徒より頼み入て予に話せしことと覚えたり、愈々防戦と決心其手筈調いし上は、
仮令弾丸神廟に触るるといえども無拠次第なり、唯防禦の策未だ相立たず苦辛せりと答えて帰れり。
 会人浮洲、水島を参謀となせり。

 

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::参考書籍::
『南柯紀行・北国戦争概略衝鋒隊之記』新人物往来社
『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社