山本 覚馬(やまもと かくま)▼

 

・・・出生

(1828/文政11〜1892/明治25)武田家家臣山本勘助の流れを汲む代々砲術指南の家、
山本権八(繁之助)の長男として生まれ、幼名は義衛。名は良晴。
妹には後に新島襄の妻となった八重子がいる。

・・・京都守護職以前

 9歳で日新館に1歳早く入る。林権助に私淑して砲術の勉強を始める。
 1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し江戸湾防備にあたっていた会津藩は緊張しており、林権助が江戸詰を命じられると覚馬を連れて江戸へ出る。そして大木衷域の門に入り蘭学を学ぶ一方、佐久間象山から砲術を学び、江川太郎左衛門や勝海舟等を訪ね、鉄砲の鋳造製作も実習した。

 1856年(安政3年)若松に帰藩し、日新館蘭学所の教授となり、学生に砲術を教授するが、従来の火縄銃廃止と洋銃砲採用を建議したが、伝統の「会津の投槍」で外夷を撃破しえると、盲信している藩幹部の反対により一蹴された。この際激しく論争して相手の非を攻撃したため、藩老の怒りを買い1年の禁足に処せられる。

 しかし、覚馬の改革案はやがて林権助らの有識者に認められ、その推薦で軍事取調方大砲頭取に任じられ、食俸十五人扶持を受ける。そこで
鉄砲射撃を藩士に教授し、従来の足軽鉄砲を廃止した。

・・・京都守護職時代〜戊辰戦争

 1864年(元治元年)2月京都在勤を命じられる。禁門の変の前、佐久間象山や広沢安任等と孝明天皇を彦根へ移す事を画策するも、佐久間象山が暗殺され頓挫する。
 この頃から覚馬は
目を患い、長崎に診療に行くも不治と診断される

 鳥羽伏見の戦いの際は、京都の藩邸に居残りとなる。またこの鳥羽伏見の戦いの際、弟の三郎が討死している。詳細は諸説あるも、
薩摩藩に捕らえられ薩摩藩邸内の牢に繋がれ、この頃完全に失明する。そして、その牢の中から新時代のあるべき姿を意見した「管見」を薩摩藩に提出。西郷隆盛や小松帯刀は管見の先見性に驚き、覚馬の牢内待遇をよくする様命じたという。
 また、父権八は城南の戦いで戦死(墓は会津若松市光明寺に有り)している。

・・・戊辰戦争後

 戊辰戦争が終了すると、覚馬は長い牢内生活の為、盲目と足の不自由の二重障害を抱えながらも、明治2年赦免されると、京都府の顧問となり、知事の槙村正直を助けて中学校・製革場・勧業場・養蚕・牧畜場等の新しい産業とその施設開設に尽力した。しかし、覚馬は京都に留まり新政府に出仕する事はなかった。
 明治8年新島襄と協力し、覚馬の持ち物となっていた旧薩摩藩邸の広大な土地を提供し、そこに
同志社英学校を創設した。(新島は翌年覚馬の妹八重と結婚する)
 その後、明治12年に開設された京都府議会の初代議長となり、後に京都商工会議所の第2代会頭を務め、また自ら政治経済学を講じ、明治25年12月病没。墓は京都市東山区若王子同志社墓地にある。

:参考文献:
『幕末維新人名事典』 新人物往来社