9歳で日新館に1歳早く入る。林権助に私淑して砲術の勉強を始める。
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し江戸湾防備にあたっていた会津藩は緊張しており、林権助が江戸詰を命じられると覚馬を連れて江戸へ出る。そして大木衷域の門に入り蘭学を学ぶ一方、佐久間象山から砲術を学び、江川太郎左衛門や勝海舟等を訪ね、鉄砲の鋳造製作も実習した。
1856年(安政3年)若松に帰藩し、日新館蘭学所の教授となり、学生に砲術を教授するが、従来の火縄銃廃止と洋銃砲採用を建議したが、伝統の「会津の投槍」で外夷を撃破しえると、盲信している藩幹部の反対により一蹴された。この際激しく論争して相手の非を攻撃したため、藩老の怒りを買い1年の禁足に処せられる。
しかし、覚馬の改革案はやがて林権助らの有識者に認められ、その推薦で軍事取調方大砲頭取に任じられ、食俸十五人扶持を受ける。そこで鉄砲射撃を藩士に教授し、従来の足軽鉄砲を廃止した。
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