横山常忠(よこやま つねただ)▼

 

・・・出生
(弘化4年(1847)12月8日〜慶応4年(1868)5月1日)戊辰時22歳(満20歳)
 横山主税常徳には元々「常晴(21)」と「常義(17)」という息子が居たが、共に若くして亡くなり、山川重英の四男源八郎(※)を養子とし、故常晴の妻となるはずだった日向次華の娘(利衛、又は縫とも)と結婚させる。
 しかし、常道も25歳で死去するが、その時妻の腹には常忠が宿っていて、常徳はその生まれた常忠を養子とする。
 『常守』は死後贈られた諡(おくりな)で、『常忠』が諱。

(※)山川重英と神尾友矩の娘知代の子

・・・京都守護職時代〜戊辰戦争
 慶応3(1867)年1月11日、パリ万博に出席する徳川昭武に随行する為、海老名郡治等と共に横浜を出航。
上海・香港・インドを経てスエズよりアレキサンドリアまで陸路を行き、再び船に乗り2月29日マルセイユに着き、更に汽車に乗りパリに到着したのは3月7日であった。
 現地に到着すると、常忠と郡治は「勝手に遊学すべし」と命を受け、昭武と別れ在日経歴のあるフランス人カシヨンの元を訪れ同居、学費がそれほどある訳でもない為、通常3〜4年掛かる勉強を努力を重ねて半年で習得し、パリで軍制や教育、行政、町並、欧州情勢などを視察。

 また、パリでは、慶応2(1866)年、幕府の樺太境界議定に行く外国奉行小出大和守の随行員としてロシアに渡航し、帰路パリに寄っていた会津藩士山川大蔵や田中茂手木と3月11日ホテルで再会を果たしている。
 7月にはパリを離れ、スイス・イタリア・ギリシャ・オーストリア・プロシア・イギリスなどのヨーロッパ諸国を巡り10月下旬パリに戻り、11月パリを出て慶応3年12月横浜に到着、しかし直ぐに鳥羽伏見の戦いが勃発。

 会津に戻った常忠は最初青龍隊の中隊頭として三代口へ出陣していた常忠は、ほどなく若年寄を命じられるとともに白河口の副総督に任命され、総督の西郷頼母とともに白河城に入る。常忠は必死の防戦に勤めたが、要所の稲荷山が危なくなると、自ら先頭にたち死守すべく戦場を駆けるが弾丸に当り戦死。 激戦の中、辛うじて首だけを従者の板倉和泉が持ち帰った後大窪山墓地に埋葬された。享年22歳。
 墓(首塚)は会津若松市大窪山墓地。

※尚、会津藩の横山家は九右衛門常定が初出で、元々は本多家に仕えていたが、お家騒動に巻き込まれ、
その後江戸に出て会津藩に仕えるようになり、三代藩主正容の寵愛を受け継室となった「お祐の方」は、九右衛門常定の娘で、
15歳の頃に会津江戸藩邸に御次並女中として奉公に上がり、正容の目にとまり寵愛を受けたものであるが、
会津藩に抱えられたばかりで立場の確立されていなかったが、
お祐が正容の継室となった事で横山家もお祐の甥にあたる主税常尹の頃に七百石となり、幕末には知行千三百石となった。

・・・史料で見る
【会津戊辰戦争】
 棚倉口原方街道の砲戦激烈となるや、間道の西軍俄然稲荷山に現出し鉄砲を発して來り攻む、
一柳等力戦して之に當り副総督横山主税亦來り兵を励まし戦ひしが、弾丸に中りて殪る。

【会津戊辰戦史】
 副総督横山主税自ら采配を振って衆を励し、稲荷山に登るや忽ち弾丸に中りて斃る
 戦ひ猛烈にして遺骸を収むるに遑(いとま)あらず、従者板倉和泉纔(わずか)に首を馘して退く。

【明治日誌】
 五月朔日、白川方面味方大敗、軍頭分始数百人討死す。実に遺憾なり。若年寄横山主税大将討死
首は同家の中小姓成る者、屋敷に持帰り、厚く葬られたり。
 (附録 宰相公、横山家へ御入有らせられ御焼香被遊、右奥へ御目見被仰付、且つ二歳の嫡子も御召あり、上にても涙を流し玉ひ、
御近習一同涙の袖を絞りしとそ。

::参考文献::
『幕末維新人名事典』 新人物往来社
『会津 とっておきの歴史』 歴史春秋社
『会津藩士銘々伝』 新人物往来社
『会津戊辰戦争』 平石弁蔵
『会津戊辰戦史』/『明治日誌』 荒川勝茂
情報提供:尚白様