■会津歴史年表■
〜保科正之時代〜

 

統治者 西暦 和暦 月日 藩内の主な出来事 藩外の主な出来事
保科正之 1644 寛永21年 8.18
9
龍造寺伯庵季明が幕府から会津藩に預けられる。
加藤氏重臣萱野権兵衛長則知行1500石で召抱えられる
1宗門改めの制を定める
1645 正保2年 4.21
4.23
閏5.7
-
-
保科正之左近衛権少将に任じられる。
徳川家綱元服にて、保科正之は理髪の役を勤める。
保科正之の次男将監(1)没。
この年、藩は美濃国より水野源右衛門を招き、月俸を与え本郷村にて陶器を製造させる。
 
1646 正保3年 4.26
12.27
奥羽大地震。
保科正経が誕生。
1647 正保4年 11.27
-
保科正之、河沼郡八田野原にて追鳥狩りを行う。
この年、本郷焼創業。
 
1648 慶安元年 4.11
4.13
11.1
-
天海大僧正、慈眼大師号を賜る。
徳川家光日光参詣につき、保科正之供奉を命じられる。
正之嫡男虎菊丸(正頼)、初めて将軍家光に謁見する。
正之、人身売買を禁止する。
 
1649 慶安2年 2 - 2慶安の御触書が出される。
1650 慶安3年 閏10.13 小姓頭の成瀬長四郎重次が加判の列に加える。  
1651 慶安4年 2
4.4
4.20
11.4
原田伊予種次・上田八郎右衛門氏伊が召抱えられる。
保科正之七女亀姫(2)没。
家光の遺言により家綱補佐の命を受ける。
保科正之六女風姫(3)死去。
4徳川家光死去。
7慶安事件が起こる。
1653 承応2年 10.28
12.13
保科正之左近衛中将に任じられる。
保科正之は従三位を固辞した為、正四位下に叙される。
 
1654 承応3年 5.28
11.25
正之長女媛姫が上杉綱勝の室となる結納が行われる。
保科正頼、従四位下侍従に叙任され、長門守を兼ねる。
6玉川上水が完成する。
1655 明暦元年 4.14
8
11
正之長女、媛姫が上杉綱勝に嫁ぐ
保科正之、社倉を置く。
正之、横田俊益を招いて儒臣とする。
 
1656 明暦2年 2.23 保科正之、院内山に墓所を定める。  
1657 明暦3年 1.19
2.1
2.23
明暦の大火にて芝屋敷焼失する。
正之嫡男、正頼(18)没
正頼の遺骸を院内に葬送する。
明暦の大火
1658 明暦4年
-
-
万治元年
-
4.21
5.15
7.26
7.28
9.30
江戸芝藩邸が落成し、正之はここに移る。
正之、三田に屋敷を拝領する。
正之三女松姫は前田綱紀と婚姻
上杉内室媛姫(正之長女)芝屋敷にて没。
正経・正純は将軍家綱に謁見。
 
1659 万治2年 3.15
3.25
正之八女金姫(2)没。
三田の藩邸造営なる。
 
1661 万治4年
-
寛文元年
-
3.26
4.10
閏8.6
11.28
成瀬主計重次・田中三郎兵衛正玄が千石加増される。
正之五女石姫は稲葉正通と縁組定まる。
正之は家中の殉死を禁じる
正之五女石姫は稲葉正通と婚姻。
 
1663 寛文3年 12.27 保科正経と前田利常の娘久満姫の縁談定まる。 5幕府、殉死を禁じる
1664 寛文4年 4.8
閏5.7
-
12.28
保科正之、山崎闇斎を招き、初めて講義を受ける。
米沢藩上杉綱勝が子無くして死去により、正之は米沢藩救済に乗り出す。
保科正純が従五位下に叙任。
 
1665 寛文5年 9.2 横田俊益が、家老田中正玄の了解を得て、稽古堂にて論語の講義をはじめる。  
1666 寛文6年 3.13
5.12
正経は前田利常の娘久満姫と婚礼。
龍造寺伯庵季明(63)没。
 
1667 寛文7年 3.24 内藤源助自卓(68)死去。  
1668 寛文8年 2.3
4.11
幕府、正之に松平氏葵紋を授けるも辞退
正之、家訓15か条を定める
 
保科正之
保科正経
1669 寛文9年 1.29
4.27
5.10
松平正容が生まれる。
保科正之が隠居し、正経が封を継ぐ。
佐藤勘十郎氏興が姓を友松氏に改める。
7シャクシャインの乱

:参考文献:
会津歴史年表
日本史年表