この日、朝廷より奥羽諸藩に徳川慶喜追討の令を下す。
神保修理、浅羽忠之助が和田倉門の江戸会津藩上屋敷に至る。 |
【会津戊辰戦史】
十五日朝廷より奥羽諸藩に令を下す。
『就徳川慶喜叛逆為追討近日官軍自東海東山北陸三道可令進発の旨被仰出候附ては奥羽の諸藩宜知尊王之大義相共援六師征討之勢旨御沙汰候事』
此の日神保修理、浅羽忠之助、江戸和田倉邸に至る。直ちに西城に登り我が公に謁して平安を賀し、且曰く、左右の臣一人も従ふものなく、其の艱苦拝察に餘りあり」と、我が公曰く、「事急にして卿等に告ぐるの暇なく甚だ苦慮せり、卿等善く速に下れり」と、我が公退城して和田倉邸に歸る。
忠之助、我が公に謁して曰く、「公今回の事藩相等に告げず獨り修理のみに告げて東下せらる、臣其の情状を審にせず、且藩相等の心裡如何を知らず、臣窃に之を憂ふ」と、我が公曰く、「是予が過なり」、忠之助曰く、「正月五日の夜大阪城にて命あり、縦令城を枕にして戦死するも粉骨力を盡さざるべからずと、然るに修理に東下の事を告げられしは何ぞや」、我が公曰く、「然り其の時汝の言に依れば天保山沖に内府公の乗艦至るの説あり、或は東下の命あらんも知るべからずと、故に予城を枕にするの語あり、當時内府公東下の形勢なきにしもあらず。然れども予は縷々建言したることはあれば必ず東下なからんと思惟したるも、聊か心頭に懸ることなきにあらず、幸に修理白書院に在るを見たりしを以て、一旦緩急あらん時を慮り窃に之を告げたるなり。若し内府公東下の議判然たらんには老臣等に告げ、且内府公を苦諫せんと思へり、然るに間もなく定敬朝臣急遽予に告げて云く、「内府公東下に決し且会桑は平生衆人目を囑す速に我に従ふべしとの命あり」と。予驚きて走り謁し苦ろに之を止むれども肯ぜずして却りて怒りに遭う。予の力如何ともすること能はず、故に老臣等に告げんと御用部屋に至れども諸臣一人を見ず、予以為らく内府公に従つて東下せんと欲せば諸臣に義を失ひ、諸臣に義を立てんと欲せば内府公に義を失ふ。両つながら全うすること能はず、寧ろ公を先にして臣を後にせんと決心して遂に公に従って共に発せり。予艦中内府公に謂て曰く、「五日の夜命あり、戦巳に此に至る、縦令満騎戦没して一騎となるとも阪城を枕として快戦すべし、阪城破るるとも関東あり、関東破るるとも水戸あり、決して中途にして止むべきにあらずと然るに遽然東下さらるるは何ぞや」、公云く、「此の如く命ぜざれば衆兵奮発せず、故に權宜を以て命ぜしなり」と、慶喜公の此の答こそ奇怪なれ、どこ迄も戦はんとすればこそ衆兵を奮発せしむる必要あれ、恭順東歸と決したる上は恭順の妨害となるべき激励の命令を発するの理なし、思ふに変節を自白するを慙ちて曖昧なる答をなせるなるべし。
慶喜公家を徳川茂榮卿に譲りて退隠することを命ず。茂榮卿巳むを得ず一旦命を報じ、之を我が公、定敬朝臣に告ぐ、我が公、定敬朝臣曰く、「惟ふに今は内府公退隠の時にあらず之れ大に不可なり」と、茂榮卿曰く、「然らば内府公に謁して之を辭すべし」。我が公、定敬朝臣曰く、「内府公一旦命あり公も亦之を奉ず、今にして之を辭するも恐らくは許さざるべし、然れども努めて之を辭すべし」と。
我が公、定敬朝臣乃ち勝静朝臣に告げ内府公の退隠を止む、若し其の説納せられずんば、より公務を辭せん」と、勝静朝臣之を慶喜公に告ぐ、慶喜公聴かずして曰く、「容保、定敬公務を辭するとも如何ともなすべからず」と。故に我が公、定敬朝臣病を移して出でず。定敬朝臣は一橋邸に寓せしが、此の日我が和田倉邸小書院に寓し二十九日に竟に築地の桑名邸に移る。
時に旗下の人士亦徃々疑ひて以為らく、一橋公継嗣の事も大阪より東下の事も専ら我が公、定敬朝臣の意に出てたるなりと、是を以て定敬朝臣は一橋邸の寓を移す。
【七年史】
此日、<朝廷は>奥羽諸藩に令を下されけり。其書に曰く、
就徳川慶喜叛逆、為追討近日官軍東海東山北陸三道、可令進発の旨被仰出候、附ては奥羽の諸藩宜知尊王之大義相共援六師征討之勢旨、御沙汰候事。
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