慶応4年1月20日 

 前将軍慶喜が会津藩の負傷者の慰労の為新浅座邸を訪ねるが、その際に重傷で伏していた高津仲三郎が慶喜に対し、幕軍の怯懦をなじり、慶喜は藩老梶原平馬と西郷勇左衛門を召して藩士の勇武を讃えた。

【会津戊辰戦史】

 二十日、慶喜公騎馬にて老中板倉勝静朝臣、老中格軍事総裁稲葉兵部大輔、若年寄石川若狭守、若年寄格浅野美作守、陸軍奉行藤澤志摩守、騎兵奉行岸大隈守、目付設楽中守其の他奥向騎兵の諸員を従へて新浅座邸を訪ふ、藩相梶原平馬、若年寄西郷勇左衛門之を迎へて先導す、慶喜公一々傷者の臥床に就きて慰労す、中に重傷者高津仲三郎(※)と云う者あり、慶喜公に向ひ戦況を具陳し、且伏見、鳥羽の敗因を以て幕軍の怯懦に歸す、慶喜公、平馬並に勇左衛門を召し藩士の勇武を感賞す
(慶喜公は後年伏見の一戦は、我が公が幕命を矯めて諸侯に命じたる如く弁疏するを常とせりと云へり、如し果して然らば本文、伏見、鳥羽の負傷兵の見舞は、無意味なり、偽善なり、笑ふ可し)

 ※高津仲三郎⇒戊辰後に束松事件、思案橋事件に参加し、思案橋で捕えられ斬首される。


【鳥羽へ御使並大坂引揚の一件】

 廿日には夕御老若方手負共の為に御見舞御出の御達しこれあり候処、俄かに上様御出直ちに御尋ね御労り下され候処、高津忠【仲が正しい】三郎手負の内に罷在り、幕兵の拙きを始め存分申上候由外誰あって有難く存じ候者もこれなく、陰にて口々悪口申し候由、後に忠【仲】三郎少し快方の節和田倉御屋敷へ罷り出申し上げ度き義これある由につき拙者同道罷り出候処、戦争之様子を申上げ、上様は誠に腰抜けに御座候、所詮当てに相成らず候間早く御国へ御下向にて五千の兵を御募り遊ばされ、四境を御固め遊ばされ候外これなき趣遮って申上げ候て退下せり。



※文献に関しては、管理人が現代語に近い形にするために、多少の意訳を含めて、
句読点や「」をくわえ、片仮名表記を平仮名に変え、送り仮名を追加し、読みやすい現代語の文章に改めてみました。

文中の()内は主に読み方、【】内は言葉の意味となっています。意味の不明のものや現代語約が不明のものは、原文のまま紹介してあります。
追々不明や間違い等のものについては、判明次第追加していきたいと思います。
間違い等気が付かれた方は、ご指摘頂けると助かります。