慶応4年1月3日

 
 慶応四年正月三日、「討薩ノ表」を掲げた旧幕府軍は、会津藩桑名藩を先鋒とし、京へ軍を進め、伏見の関門で薩摩守備兵によって「勅許である」と称し、通行を妨げ、これにより伏見街道より林隊、竹田街道より白井隊にて進軍、伏見関門において薩摩藩より発砲。これにより、「鳥羽伏見の戦い」が幕を開けた。

 林隊は激戦の中、生駒隊に応援を求めるも「陣将の命非ざれば出来難い」と承諾せず、林隊隊長林権助は「我が隊を見殺しにするも同様なり、この上は一歩も引かず、一同潔く死を決して戦い、隊名を汚さず名を後世に残せ」と励まし猶も激戦を続け、最中林権助も弾丸を三弾受け重傷を負う。

 白井隊は竹田街道にて鳥羽方面での砲声を聞き開戦を知る。近傍の薩摩藩邸を襲い数名を打倒し放火する。その後、伏見方面激戦の報を聞き、林隊の救援に向うも伏見に到着した時には空が明けていた。

【会津藩大砲隊戊辰戦記】

<林隊>
 (前略)この時、我が隊長(林権助)は柵門に手を掛けて押し開きながら発砲の令を下だす。その瞬間敵より大砲を我に向て発射す。 我が隊も、これに応じて大小砲を発して応戦する。彼我の距離僅に数間に接することあり。隊長奮って槍を入るべきの号令を下す。その声天地に響く。
 一同突進、既に接戦の場合に及ばんとする場合、敵は多く散兵となり各店舗に潜み狙撃し、弾丸雨の如く、組頭中沢常左衛門丸【弾】に中て斃れ、その他の死傷少なからず。為に我隊も諮跙遂に元位地に復し砲戦を為す。其時隊長巨海源八郎、牧原源蔵の両人に命し陣将に応援を求めさせる。※陣将の位地不明止むなく生駒隊に会して応援を乞うに、陣将の命あるに非ざれば出兵し難きの答あり。苦戦の状況を述て再三及ぶも遂に承諾を得られず、止むなく引き返して其旨を隊長に報告す。
 隊長憤怒に堪へ兼ぬるの語気にて、「我が隊を見殺に致すも同様なり、此上は一歩も退却せず、一同潔く死を決して戦い、隊名を汚さず、名を後世に残せ」と。
此号令に励まされ、劇戦中再度槍を入るべきの号令あり。兵鋒鋭く突き入るに隊長弾丸に中り、しかも三弾丸命中するも剛気の隊長は、なお座して号令す。味方数度の進撃に手負死人を出すこと多く、戦に耐るもの、極て少なく、隊長の負傷より如何共すべからざる苦戦に陥り、万一隊長を敵に取られる恥辱あるのを憂いて、新美民弥、柴外三郎外三人で一先ず奉行屋敷に引取る。
 隊長(林権助)励声して曰く、「戦士一人も惜むべし、自分を打捨て奮戦すべし」と。此時広川元三郎駈けて来て「隊長を敵の手に渡すが如きあっては、相成らされば、人を付して後送すべし」と。依って矢島七之助、水野万吾、柴外三郎、大塚謙吾を付し、舟にて大坂に送り、他の生存の隊員は元位地に進んで戦う。

 偶、敵の放つ砲火の為に周囲に火災起り烟焔天に漲る。敵は勢に乗じ来りて味方の苦戦甚し。此際石州浜田藩の兵(大凡そ二十名位と覚ゆ)応援として来るにより勢を得て奮戦中諸口の砲声も音なきに至る内、敵は桃山の麓の御香ノ宮より再び劇しく発砲し、遂に大苦戦に及びしも、佐藤小原ノ両組頭は此を死所とし一歩も退却すべからず、励声号令せらるに勢を得て戦う内、残念にも両組頭も負傷せり。然れども、なお屈せず槍を取って杖とし頻りに号令す。左側に連絡を取りあいし幕府の七聯隊も、生憎手負討死の為に退却し、すでに包囲せられんとするに至り、且つ広川元三郎来て陣将の命なり引揚くべしとの令なりしも、なお止って戦う内、再び広川の伝令により砲軍の破損せし二門を残し一門を引き橋を渡り川向に退却して、手負は船に乗せしめ看護を付し大坂に下し、他は淀の城下に来て宿陣する。

 ※陣将は田中土佐。この時、生駒隊が応援に駆けつけていたら、事態は変わったのかどうか…ただ林隊131名中、負傷無く従軍したのは僅かに26名のみであった。

<白井隊>

 三日晴未明、山田甚八、赤羽忠ノ助、高橋兵治斥候として伏見に至る。本隊は四ツ時(午前十時)伏見に着いて指揮を待ち京橋元にて午飯を喫し休憩する。薩州の番所を隔てる数丁、為に休憩所前を偵察らしきものしばしば通行する。三浦重郎、杉浦佐伯斥候として先進せしに、薩人銃を擬し通行を禁ぜじとして帰り来て報告する。隊長窃に銃に丸せしむ。七ツ時(午後四時)頃総督より竹田街道に向って進軍すべきの令あり。同所を引き払らい三丁を進めば、某橋際に土州藩の番所あり通行を禁ず。柴謙介※、鈴木季蔵談判に及ぶも勅命を以って拒絶す。止むなく郊外に迂回せんとする際、鳥羽方面に辺りにて発砲声を聞く、依って開戦を知る。

 ※柴謙介⇒後の将軍となって柴五郎の兄で、同年4月6日に山川大蔵隊の斥候として栃木宿付近に樋口満吉とその従者江花七之助と共に偵察に出た際に、農民に捕えられ斬殺される。


 瞬時にして伏見町にも大小砲の響き盛んに起こる。一同奮励郊外を経て再び街道土州番所の背後に出でたり。偶近傍に薩の倉屋敷あるを聞き土人を案内とし、組頭 松浦水右衛門、小池勝吉、甲士 草苅行衛、諏訪幸三、橋爪又六、杉浦佐伯、伊藤覚次郎、坂部虎三郎、杉浦八太郎、大岩元四郎、村岡滝三郎、簗瀬鉄馬 右の面々先鋒となり邸中にブラント投弾を投じるも発火せず、隣家に放火す。此時、本隊も既に着し一隊となり表門に向い大砲を発射すれば門扉左右に開く。一同突貫して邸中に入るに兵糧方らしき数名の者を打ち取り邸内に放火す。邸中の長屋には燭を点し人ある如く装いあり。手代木善助密書を発見し森勇吾邸内火薬庫脇にて一兵打留め九の字がある陣笠を出す。一同邸前に引上げたる際、川向いに来る者あり。篠崎左一誰何するに薩藩と答える。直ちに銃殺して首を隊長に出し大小刀を分取する。其挙動の剛勇なる人々歎賞す。

 巳にして竹田街道に出れば敵近傍に潜居するの聞あれば伏見市を離れる三四丁の一軒家に至り街道の左右または、畑中に散兵を敷く。斥候して伏見方面へ杉浦佐伯、江上四郎※、、竹田街道に杉本弥三郎、岸武三郎、簗瀬波江、草苅行衛出向す。引続き竹田街道に林信三郎、小林謹吾、鯨岡勝之進、村端迄行キ林、鯨岡ヲ残シ、小林一人村中に入り前の杉本等四人に会し密談中不審の者来る。糺明するに返答せず逸走せり。小銃発射するも暗中遂に得ず。林信三郎街道に偵察中何れよりか狙撃せられ、前額部に命中即死する。遺体は傍らの家に埋める。再ひ通行する者有り。組頭海老名郡治誰何するに薩藩と答るや、三浦重次郎側より銃剣にて突き逃走る処を四方より打斃す。

 この時、新撰組小県三郎来て伏見街道出張の薩州の手に入り間諜をなし、只今抜け出してきた処なるが彼方切迫なりと。依って応援とし引返すに再び土州藩の番所は通行を許さるにより郊外に迂回し高瀬川堤に至れば幕兵並に我が藩の掘隊に出会わす。然るに伏見本街道の劇戦中なり。奉行屋敷の林砲兵隊隊長始め多数の死傷にて、既に引上げたる由にて総督より淀へ上ぐべきの令あり。市中兵火の為焼失中を大砲を引き東雲近き頃淀城下に来て休息す。戦死 林信三郎。

 ※江上四郎⇒江上太郎(秋月登之助)の叔父


【戊辰戦記結草録】


 三日、我砲隊は大砲四門を載せ舟行、林隊は陸路より伏水に至る。時に薩兵関門を固守、予、三浦十郎と共に事情探索の命を受け街衢(がいく=町の事)を廻行す。
 真偽は弁ぜずと云えども、勅命なりと称して罵詈を極め、且我行を遮る。よって使いを走して、これを大坂に報じ令を待つ。
 日暮に及ぶ頃合命あり。曰く、「勅命有って上洛す、何ぞ妨碍(ぼうがい)あらん」と。 此に於て先鋒林隊別撰組薩摩藩の関門に向う。我白井隊は京橋より竹田街道に進む。 土州勢、我が行くのを遏(とど)めて曰く、「すでに勅命あり、京に進入するを許さず、願くば路を他に取るなら可」と。時に関門より薩兵、我先鋒に発砲する。すなわち砲声を聞て直に転じて薩邸に進む。組頭松沢水右衛門、小池勝吉、甲士草刈行衛、予、諏訪幸吉、橋爪又六、伊東覚次郎、坂部虎三郎、倉沢豊次郎、杉浦八太郎、大岩元四郎、村岡滝三郎、簗瀬銕馬等進発し、先ず放火を邸中に投じる。焔烟なお起らず。よって火を隣家に放つ。時に溝を隔てて一小隊来るを見る、「何れの藩なり」と問う。酒井と答え、溝の前岸を過ぎ我等薩邸外石橋の側に列し門より出る者を狙撃する。ついで全隊来り大砲を放って門扉を破り斉く邸内に進入する。三人を斬る(内、足軽森勇吾邸火中米蔵脇にて薩兵を討取る、小林森之助一名討取る、篠崎左一邸門外にて一名を討斃し首を切り両刀を取る)、敢て防戦する者無し。勢に乗じて直に京師に入るべしと竹田街道に進む。偶、人の来るに逢う。問て曰く、「敵情は如何か」。竹田口に大砲六門を置いて散兵を布き埋伏する、輒く進入すべからずと。我隊も一軒屋辺に進んで散兵を布く。時に薩の斥候者来る。三浦重郎躍出大声一喝銃槍を以って之を突く。死せずして走る。林信三郎斥候に行き丸に当って死す。


【會津戊辰戦争】


 鳥羽街道は松平豊前守正質之を督し、桑名藩を先鋒となし大垣兵之に次ぎ、伏見街道は竹中丹後守重固之を督し、會津藩を先鋒となし、幕府の新撰組、濱田藩の兵之に次ぐ、
これに對する西軍の部署左の如し、時に慶応四年即ち明治元年戊辰正月三日なり。

 鳥羽方面 薩長ニ藩の兵二千、薩の伊地知正治、長の山田市之允之れが参謀たり。
 伏見方面 薩長土三藩其兵二千、薩の島津式部之を督し、吉井幸輔、中原猶介、長の林友幸之が参謀たり、川村與十郎、篠原冬一郎等其隊中にあり。

 当時、山内豊信飽くまで平和を主張し、藩士を戒め「薩、長、會、桑の私闘に加入すべからず」と厳命せしも、板垣退助部下の士山田喜久馬、未松連之助、渋谷寛、松下意興の四小隊、および皇居守衛たりし山地元治、坂井重季の二小隊、北村長兵衛の砲兵等、密かに来てこれに加入す。<中略>                          
 鳥羽方面の砲声起るや、権助自ら門を開きて突進す。 長兵、これを見て一斉に砲火を開く、その間僅かに数間を隔てるのみ。 會兵、これに斃れる者数名、権助時に年六十三、白髪銀の如し。 部下に令して砲火を開かしめ、ついで刀槍をもって突進する。
 長の林友幸等、部下を督し、薩兵と力を合わせ、大いに戦い、人家に潜み、これを狙撃する。 権助、三発を身体に受け、組頭中澤常左衛門以下率ね負傷す、権助即ち牧原源蔵をして生駒五兵衛に来援を求めるが、生駒隊は陣将田中土佐の命が無いからと、これに応ぜず。 権助即ち死を決して戦う。廣川元三郎、柴外三郎が来て権助を後退せしめんとす、権助聴かず勵聲叱咤し、衆を督して戦う、大谷謙吉、小野萬吉、矢島七之助等、強て之を扶けて退く。
 組頭佐藤織之丞、小原宇右衛門が代ってこれを指揮して頑として動かず、時に、西軍火を東軍の背後に放ちて、これを鏖殺【※皆殺し】せんとす。 佐川隊組頭依田源治、これに死す、會々濱田の一隊三十余人来て援け、近藤勇、また新撰組を率いて能く戦ひ遂に西軍の砲兵を沈黙せしむと言えども、西軍勢益々増加し、佐藤及び小原傷つく、豊後橋に在りし(白井)五郎太夫の一隊は薩の蔵屋敷に放火し、同邸内に在りし数名を斬り、竹田街道を猛進して林隊の急を救はんとせしが、途にして退却の命に接し伏見町兵燹の中を過ぎ天明漸く淀に着す。


【会津鶴ヶ城の血戦】


 然るに会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬等兵を率いて慶喜を護衛し、会津、桑名の兵を先鋒とし、幕府の兵其他佐幕諸藩の歩、砲兵約一万、鳥羽伏見の両道より入京し遂に開戦となる。


【島田魁日記】


 辰ノ年正月三日戦争相始まり、敵桃山ならびに御香ノ宮より大小銃打ち掛け、戦数刻に及び、我が軍伏見市中へ放火す。 この日丑に退く。肥後橋辺にて陣す。


【浪士文久報国記事】


 明治壱辰年一月三日陸軍総督松平豊前守、大久保主膳正、竹中主水正、林権助を隊長とする会津兵三百人、小笠原大隈守を頭取とする伝習隊五百人、新撰組副長土方歳三、同助勤永倉、原田左之助、井上源三郎、斉藤一、山崎丞、諸士調役吉村貫一郎、大石鍬二郎、小荷駄方岸島芳太郎、安富才輔、中村玄道、青柳牧太郎、隊長付組頭石井清之進、相馬肇、歩兵頭岸嶋芳太郎、一小隊五十人、新撰組総督、同士百人、隊長付五十人、歩兵付五十人、都合二百人の兵、伝習隊五百人、会津兵三百人、都合千人にして籠城いたす了簡当より薩摩へ小幡三郎と荒木新三郎を間者として入れ置き、両人三日朝に及ぶと三藩諸方へ兵を配置し、御香ノ宮に大砲四門を置いた。御香ノ宮は奉行所を一目に見下ろせる所で、総督を始め、組の隊長は御殿に集まり、今晩兵端が開かれる模様に見え、それぞれの固め場所を表門は会津兵、南北の門は伝習兵、裏門は新撰組と決した。
 夕方になって、御香ノ宮より大砲打掛け、暫し砲戦となり、三藩から打ち掛けられるのは全て焼玉で破裂するものが多く、新撰組は裏庭から大砲一発打ち、これが御香ノ宮へ届き三藩に討死が多く出た趣である。(中略)

 御殿へ焼玉を打ち掛けられ、一旦は燃えるも消したが、所々から燃え上がるようになり、とても裏門に居ることが叶わなくなり、会津兵と合流し、総督の命令により表門を開き三方へ切り込む。敵においては鉄砲を烈しく打ち掛ける中、敵を御香ノ宮まで退け、遂には桃山へ敵を退けると、敵を桃山まで追撃し、直ぐに京へ押し入らんばかりの勢いで敵は残らず丹波・丹後へ落ちる。味方はおおよそ鉄砲に撃たれ、僅かの人数になり、残念ながら元の表門へ退く。会津兵組頭林権助、玉を八発受けて討死、敵は町家に火を掛け、漸くの事にて川向へ退いた。


【明治日誌】


 明治元辰の正月三日 慶喜公討薩ノ表を草し、使を発し、会桑の兵を附して入京せしむ、伏見関門へ懸れば、固く閉じて入るを許さず、彼是れ応接に及び、強て通らんとして暫く時を移せしに、豈に図らんや、大砲一発彼方より響くや否や、小銃四方より打ち懸たり、我兵も劣らず砲発し、大戦となり伏見鳥羽辺にて接戦都合七日に及ぶと云う、中にも抜群の働き有りしは、林隊、白井隊、新撰組、別撰組なりとそ、然るに公儀勢、御家勢、桑名勢討死手負夥しく味方大敗軍となり、追々、味方は大阪へ引揚たり。


【泣血録】

 将以其三日入京。西軍出兵扼之。幕兵進自鳥羽者。先為其所誘撃。敗還。伏見戦巳酣(※たけなわ)。烟焔漲(※みなぎり)天。砲聲震地。


【京都守護職始末】

 是日我前驅の隊伏見に達するや関門守衛の諸藩兵急に関門を鎖して徳川内府兵を率ゐて入京するは朝廷の禁する處と稱して、敢て之を開かず我前隊これに答へて内府召勅に依りて入朝す、其兵を率ゆるは戒心ありて自ら衛るのみ朝廷これを禁ずとは予輩未だ聞くを得ず、例令真に勅命ありしも之を犯すの責内府甘んじて之に任じ、決して累を諸君に及ぼさず、請うこれを開けと、彼是問答の際、突然彼より砲撃しけるにぞ、武門の習ひいがでこれを黙過すべき、茲(ここ)に至りて、我公多年辛苦盡瘁【自らの労苦を顧みず、全力を尽くす事】したる公武一和は空しく一朝水泡と化し去りて、遂に戊辰変乱の基とはなりぬ、噫。


【志ぐれ草紙】

 しかるに當時我が先鋒たりしは大砲隊にして隊長は林権助なり、薩人が関門を守りて通行させぬ様子なれば、権助は隊士と砲門を手前に残しおき、一ニの従僕のみ召しつれて関門に到り、守衛の士に会藩士なり前将軍上京のため先詰めを命ぜられ只今到着したり、通行を許されたしと事のよしをつまびらかに述べければ、彼は朝廷へ伺ひて可否の答におよぶべしとなれば、権助已むことなく退きて屯所に至り、戸口に入らんとするや関門より大砲を発し我が隊を撃ちければ、我はかかることあるべしともおもはぬ不意のことなれど、武門の習ひ退去すべきにあらず、応じて発砲したりしものにて、


【盤錯録】

 明治元年正月内府会桑以下の兵を率いて入京せんとす、三日戦驅の兵道を争って薩長の兵と伏水に戦う。東軍利あらず鳥羽の戦勝って又敗る。


【伏見戦争の一斑】

 三日暁道驛出発淀を過き下鳥羽を経て上鳥羽行軍中前途関門の方向に當り一巨の砲聲起ると同時に先進せし塚原但馬守護衛の歩兵一個大隊と戦端を開き是より第十一聯隊第一大隊と交戦し徹夜鳥羽街道堤下各所に伝戦す。

 

 

※文献に関しては、管理人が現代語に近い形にするために、多少の意訳を含めて、
句読点や「」をくわえ、片仮名表記を平仮名に変え、送り仮名を追加し、読みやすい現代語の文章に改めてみました。

文中の()内は主に読み方、【】内は言葉の意味となっています。意味の不明のものや現代語約が不明のものは、原文のまま紹介してあります。
追々不明や間違い等のものについては、判明次第追加していきたいと思います。
間違い等気が付かれた方は、ご指摘頂けると助かります。