| この日、昨夜より引き続いている鳥羽方面の戦闘の砲声が早朝より鳴り響き、東軍は鳥羽・伏見両道より進軍、鳥羽街道の竹薮に西軍は伏兵を潜ませ、進撃してきた東軍を狙い撃ち、歩兵奉行並の佐久間信久近江守は敗兵を収めて再度戦おうとするも叶わず、自ら銃を手に銃撃しようとした所銃弾に当たり斃れる。
白井隊は鳥羽街道の応援の為、鳥羽に向う途中の淀町で戦闘となり奮戦、そこへ佐川官兵衛率いる別撰組が駆けつけ、西軍を敗走させる。
この日、徳川慶喜は、目付遠山金四郎を遣わし、白井隊、堀隊、佐川隊、林隊の将士を慰労した。
また、容保も近侍浅羽忠之助、加藤内記を戦地に遣わし、陣将田中土佐以下の諸将を慰労、浅羽、加藤は戦場を巡り諸将に逢い容保の言葉を伝えると同時に、戦況を観察した上で大坂城に戻り戦況を報告する。
また、正規の田中隊の一陣に加え新たに、町田隊・丸山隊を始めとし、上田学太輔を陣将とした一陣で、大坂の薩摩藩邸を襲撃するが、既に薩摩藩兵は撤退後でもぬけの空であった。
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【会津藩大砲隊戊辰戦記】
<林隊>
四日暁天鳥羽方面砲声響く。鳥羽方面は昨夜より引き続き対戦中なり。淀町に休息中幕府より酒を賜る。一同団欒、昨夜の苦戦を談し居る内午後に至り鳥羽劇戦の聞こえあり。直ちに応援として駆け付ければ敵は既に大敗死傷を捨て敗走する場合なれば、我が隊も共に追撃し鳥羽村端の人家に火を放ち尚数丁を追い撃つ。日も早や黄昏に及びたるを以て追撃を禁じ、白井隊一同上田八郎右衛門隊に番兵を譲り淀に引き上げ休憩す。此の日戦死 富田仙吾。
<白井隊>
四日晴五ツ時(午後八時)頃斥候として伏見街道へ戸枝栄次郎、原八五郎、鳥羽街道へ倉沢豊次郎、日向勝治、大岩元四郎出る。然るに四ツ半(午前十一時)頃に及び氏方面に迂回し敵の本営搦手へ進撃すべき令あり。直ちに出発数丁にして諏訪常吉馬を走らせ来て鳥羽街道の味方苦戦に付き、直ちに引き返し応援すべく且つ他に後援なきの一隊遺り難し急ぎ引き返すべしと。故に引き返し淀に午飯中、鳥羽方面大敗即時応援すべき命により走らせて小橋辺に至れば、味方の敗兵散乱して敗走し来るを左右に開かしめ淀町出端にて迎えて戦う。地理悪く本隊は一丁程を隔てて野田寅三郎等先んじて人家の畳を出して胸壁として防ぎ戦う。
街道正面に大砲を二門を備えて発砲す。我が隊は始めての戦いにして鋭気盛んなれば死傷を顧みる暇もなく奮戦すること略一時間、其間、隊長はしばしば大声に「死して君恩に報ずべき時なり」と号令し一同奨励せり。正に戦い酣なる時、後援として別撰隊の者鯨波の声を上げて駆け来る。甲士伊東覚次郎之を見るや奮然銃を捨て大刀を抜き放ち真向にし堤上に踊り上がり「別撰隊に先せられ何の面目あらんや」と。銃丸雨飛の中に飛び込みければ一同勢いを得て突進敵中に進入せしに敵は忽ち死傷者を捨てて敗走せり。追撃すること五六丁余組頭小池勝吉敵の首級を得たり。敵は長州の者なり。すでに日も西山に傾きたれば追留めたる位地に仮に畳を以て胸壁を造り、警備は我が上田隊に譲り、夜に入り淀に帰り休息す。この夜、幕府御目付遠山金次郎来て今日の勝利抜群に付き、追って賞は望みに任すべきの上命を伝える。隊長微功を以て固辞す。 此日討死 武田俊馬、手負 草刈行衛(後死)、藤沢辰三郎(後死)、大熊俊六郎、安部井留四郎(後死)、和田仙六(後死)、坂部虎三郎(後死)、日向勝治、杉本弥三郎。
【会津戊辰戦争】
同四日朝廷仁和寺宮純仁親王を総督に、東久世道禧、烏丸光徳を其参謀となし、徳川慶喜及び随行せる諸侯の官爵を削り追討令を公布す、東軍之を知らず鳥羽伏見両道より進み、決死以て君側を清めんと欲し皆關外に戦う。幕の隊長佐久間近江守、窪田備後守等、陣頭に立ち諸兵を麾きて進む、兵氣頓に振う。西軍將さに潰亂せんとす、東軍勝ちに乗じて進む、西軍兵数百を伏して東軍の中央を衝く、弾丸雨の如く處発なし、佐久間身数弾被りて殪る、窪田亦挺身敵中に入りて死す、西軍勢威為めに振い東軍遂に退く、此時東軍始めて錦旗の出動を聞き益々薩長の擅恣を憤懣せり。
時に白井五郎太夫、部下百三十余人を率いて宇治方面に出で、西軍の本営たる城山を衝かんと欲し砲兵を従い之に向かう、途にして鳥羽方面の急を知り、林隊を援け励聲疾呼、士卒を督して奮闘す、佐川官兵衛の指揮する別撰組亦鯨波を作り刀槍を揮って來り撃つ、別撰組は弓馬刀槍の内ニ道の免許を得たる者をもって成る精鋭の一隊なり、林隊の士伊藤覚次郎率先し、佐川隊に先を譲る勿れと衆を励まし共に弾雨の間を驀進す、西軍遂に疲弊して退く、是に於いて諸隊火を鳥羽村端に放ち、漸く頽勢を挽回して東寺入口離宮八幡祠に追撃して日全く暮れる。
朝廷東軍猖獗(しょうけつ)【悪い物事が猛威を振るう事】東寺に迫ると聞き愕然色を失す、大久保市蔵刀を抜き主上の側に侍し、岩倉具視亦狼狽し主上を叡山に遷し奉らんとし宮中の惶懼(こうく)【恐れ慌てる事】言うべからず※。白井五郎太夫追撃を止め民家の畳を重ねて胸壁を築き、守備を上田八郎右衛門等に譲り、全軍淀に退く、林隊及び別撰組亦退く、具視等之を聞き初めて愁眉を開く。
伏見方面亦死力を尽して進路を開かんと欲し火を民家に放ちしが、烟焔天地を蔽い橋梁亦焼失せしを以て却て進路を失い、空しく西軍の砲撃に会い支えるを得ずして退く、佐川官兵衛當面の形勢不利なるを聞き、竹中重固に告げて來り援く。
※殿上人の狼狽する様は禁門の変の時の様↓である。
『鷹司邸の火起こる、堂上の人々狼狽して界町門の官軍敗れて、賊兵凝華洞に放火せしならんと大に狼狽す、我公之に語りて火如し凝華洞ならんには、洞内の家屋新築なるを以て其烟白かるべきに其黒きを以て見れば必ず凝華にあらずして鷹司邸ならん、勝報を得る近きにありと、衆人漸く安し、須臾(しゅゆ=短い間)にして果たして賊兵退却の報至る』(京都守護職始末より)
【会津戊辰戦史】
正月四日阪軍大挙して伏見鳥羽両道より進撃す、京軍豫め兵を鳥羽街道の竹薮に伏す、鳥羽の阪軍銃を集めて亂射し其の勢い甚だ鋭し、忽ち伏兵竹薮中より起り阪軍を撃つ、本道の京軍且つ戦い且つ退きしが、反戦して烈しく阪軍の前隊を撃つ、阪軍殪るる者多し、終に全軍潰亂す、幕府の歩兵奉行並佐久間信久近江守は敗兵を収めて再び戦わんとしたけれども及ばず、是に於いて信久は従者澤田^太の携えたる銃を執り自ら伏兵の指揮官を狙撃せんとす、會ゝ京兵竹薮中より信久を連撃する数発、信久丸に中りて馬より落つ、此の時歩兵頭窪田鎭章も一隊の兵を励まして亂軍の中に入り、縦横豨突して死す。(中略)
辰の下刻(午前九時頃)伏見の方位に砲聲あり、我隊田中八郎兵衛(幌役なりしならん、幌役は軍事奉行即ち参謀長の属僚にて参謀の如きものなり)斥候せんと淀の市外に進むこと五六丁余、偶々幕府の歩兵伏見より陸続相接す、八郎兵衛怪みて之を問う、答えて曰く「隊長の命に依り退却す」と、八郎兵衛驚きて本営に復命せんとす、偶々竹中重固に遇いて之を告ぐ、重固怪しみて曰く「會って退却を命せず」と。馳せて之を止むれども従わず争いて淀に至る。重固も亦已むこと得ず淀に至る。八郎兵衛走りて之を我が陣将田中土佐に告ぐ。
此の時総督大河内正質朝臣、竹中重固等議して宇治を廻り京軍の本営桃山の背後より進撃するの策を決し、之を我が白井隊に命ず、巳の刻(午前十時)頃白井隊進んで田中土佐が陣前を過ぎり淀の市外に向かう、八郎兵衛、五郎太夫等が後方より至るに遇う。八郎兵衛怪しみ問いて始めて其の實を知る、乃ち我が隊の柴太一郎、廣川元三郎等と共に白井隊を止む、諏訪常吉(柴、廣川、諏訪の諸士は幌役なりしものの如し)馬を馳せて巳に進みたる白井隊を止む、五郎太夫乃ち太一郎、元三郎、幌役林又三郎等と本営に至り、白井隊を援くるの兵あるか否かを問う、重固曰く、無しと、元三郎議して曰く、孤軍を深く進むるも兵寡くして敵を破るに足らずと、會ゝ鳥羽の戦い破れ大兵退却し來る、重固曰く、鳥羽の戦急なり請う宇治を措きて鳥羽の軍を援けよと、白井隊乃ち鳥羽に向かう時に未の刻(午後二時)なり、小橋に至れば幕兵伍を亂して退却す、白井隊勇気凛然其の中央を驀進す、京軍勝ちに乗じて淀近傍に進み來りて砲を発する事頗る劇し、白井隊之に応戦し進んで淀市外に至る。
近傍平田蘆葦繁茂し防戦便にならず、京兵忽然密竹中より発砲す、我が兵退く事一丁許、五郎太夫、組頭小池勝吉、遠山寅次郎等止り戦う、此の時京軍援軍加わり砲撃の猛烈初めに倍せり、我が兵も亦此の地を墳墓とせんことを期して奮戦す、佐川隊、掘隊、林隊來り援けしかば京軍辟易して隊伍少しく亂る。五郎太夫即ち大聲衆を励まして曰く、「死して君恩に報ずるは此の一挙にあり進撃せよ」と、伊東覚次郎其の聲に応じて第一に進み、刀を揮って突入す、古川次郎も亦進みて敵兵を斬る。我が兵屍を踰え槍刀を揮って進撃し、竟に本道及び密竹中の京兵を銃撃す、京兵大いに敗れて潰走す、我が兵追撃して下鳥羽に至る、偶々本営より兵を収むるの令あり、此の戦勝により士気のミりたる幕兵の援軍を発したらんには、戦敗の為意気阻喪したる京軍を長軀して京都に入るを得べかりしに、何の意味なき収兵の令を発したる我が本営の意こそ不審なれ、我が藩士は此の令に憤慨したれども力及ばず淀に向かって退却す、蓋し京軍の援を絶たんが為なり、其の砲弾白井隊の頭上に破裂す、且つ糧食乏しきが故に田中八郎兵衛、諏訪常吉淀に至りて伏見街道の砲撃を止め、本営に至りて糧食を送らんことを謀り併せて援を請う、而る後再び胸壁に至れば我が兵巳に勝を得て壁外に進撃す、淀に在る幕兵等此の勝を聞きて先を争いて進み來る。
白井隊は皆白足袋をを穿ちて標識となす、幕府の歩兵等嘆賞して曰く「今日貴藩奮戦大いに労せり宜しく帰休すべし、之に代える幕兵一大隊を以てし且つ前方の竹薮中に兵を伏すべし請う憂ふること勿れ」と、白井隊士曰く「此の地の防守は必ず我が隊に委せられよ」と、重固曰く「戦は今日のみにあらざるべし卿等疲弊す淀に至りて休息せよ」と、白井隊士曰く「此の胸壁にニ中隊を置き前方十余丁に一中隊を置き、又其の前方に一小隊を出し路傍の竹藪中に伏を設けよ」と、重固曰く「哨兵を用ふるは自ら其の法あり卿等憂う事勿れ」と、歩兵頭秋山下総守も亦曰く「幕兵一大隊及び大垣藩の兵を出し路左の竹薮に兵を伏せ路右の蘆葦は焼き盡して厳守せしめんと、我が隊士乃ち議して曰く「上田隊は今日淀に在りて戦に会せず、宜しく之を第一に進め河畔の胸壁を固守し堤下の村家に屯在せしむべし」、第二堀隊、第三白井隊と決し之を竹中重固に告げ、白井隊、堀隊、佐川隊、は淀に至りて休む。
巳にして堤畔に在りし幕府の歩兵退いて淀に至る者陸続相接す、我が兵之を止む、彼等曰く「隊長の命なり背くべからず、再び進むべきの命あらば進むべきも一たび退かざるを得ず」と、上田隊は申の下刻(午後五時)を過ぎる頃、鳥羽街道に至り淀の街端に屯し、前方八丁許の地點に守兵を置きて厳守す。
初め竹中重固の言に依れば、鳥羽街道の竹薮に大垣兵を伏せしむるの計策なりしなり、然るに大垣兵在らずして却って薩兵の占める處となり、戦うに及んで伏起り銃丸阪軍の中堅に注ぎ死傷多く、遂に幕兵敗れて退き我が兵も大いに苦戦す。然れども白井隊能く奮戦し、佐川隊之を援けて竟に大に捷つを得たり、佐川官兵衛、竹中重固を見て曰く「軍機此の如くならば明日の戦捷期し難し、旗本兵多しと雖も決し勇闘すること我が兵の如くならず、予は伏見の敵に當らんも徒歩或は其の機を失わん事を恐る願わくは其の乗馬を貸せ」と、重固首肯して其の馬を贈る。
午後京兵八幡の方面に廻らんとす、淀本営より田中土佐隊、生駒五兵衛隊に命じて之に備えしむ、八幡は松平伯耆守(宮津藩)の兵の守る所にして其の兵寺院市家に充つ、手代木直右衛門周旋して欃に田中隊を寺院に生駒隊を市家に宿せしむ。
此の夜佐川官兵衛少数の兵を率いて、伏見街道淀を距ること半里許に篝火を焚き巡邏を厳にす、偶々幕兵俄然驚擾し叫びて曰く「京兵舟を棹して下ると依りて頻りに銃撃す、佐川隊士行きて之を観れば、燼餘の大木河水に浮沈して流れ下るなりき、同夜幕府官兵衛に命ずるに、幕府の歩兵築造兵及び大銃手一部を統率指揮すべきことを以てす、因りて幕府の歩兵をして淀川前岸の蘆葦中に伏せしむ、蓋し明旦京軍若し襲撃せば側面より銃撃せんとせるなり、又明日幕兵を部署して防戦すべき所の地理を視察し終夜巡邏を厳にす。
夜半慶喜公目付遠山金四郎を淀に遣わし、白井隊、堀隊、佐川隊、林隊の将士を慰労す。
我が公近侍浅羽忠之助、加藤内記を戦地に遣わし陣将田中土佐以下の将士を慰労す、忠之助、内記三日亥の刻(午後十時)馬に鞭ち発す、未だ守口に至らざるに大場小右衛門に逢い伏見苦戦の状を聞く、途中傷者を後送し來ること甚だ多し、八幡に至り田中土佐に逢う、乃ち公の命を伝え且つ戦状問う、一柳四郎左衛門、木村兵庫傍に在りて曰く、「幕兵振るわず敗因を來せり、故に幕兵に依頼せず、我が兵は八幡を守り、桑名藩兵は山崎を守りて防戦せざるべからず」と。
既にして忠之助、内記馬を馳せて淀に向かう、淀より退く兵士雜遝(ざっとう)す。淀小橋に至るに弾丸頻りに來る、番頭上田八郎右衛門兵を率いて橋畔を守る、乃ち公の命を伝え馬を此に繋ぎ鳥羽に向かう、途に組頭海老名郡治に逢い共に行く、沿道幕兵一人を見ず独り我が兵處々人家に據りて銃撃するのみ、又番頭堀半右衛門に逢いて公の命を伝える半右衛門曰く「余未だ一戦もせず是より戦わんと兵を率い弾丸雨注の間を突貫す」、郡冶、忠之助等も亦共に進む、砲丸頻りに至る故に暫く民家に避けて間を待つ、郡冶曰く「余は公の命を五郎太夫に伝えん子は他隊に向かうべし」と、忠之助諾して原路を復る、佐川官兵衛を率いて進むに遇う、乃ち公の命を伝ふ、官兵衛曰く「吾が隊は是より進んで槍を入れ以て敵を破らん」と、忠之助淀に復る、見廻組頭佐々木只三郎に謂ひて曰く「鳥羽の戦場には我が兵の在るのみ、幕兵皆退くは何ぞや子夫れ力を盡して之を進めよ」と。
帰途総督大河内正質朝臣、陸軍奉行竹中重固に逢う、二人曰く「内府公敗軍を聞かば東下の命あらんも知るべからず、願わくば貴藩公力を盡して諫止せんことを、亦永井尚忠にも詳に此の事を告げよ」と、忠之助等諾して復た発す。往く往く幕府の騎兵に逢う、皆我が兵の勇敢なるを稱して曰く「昨夜伏見の戦いに京兵と火焔との囲む所と為り殆ど死地に陥りしが、貴藩兵士の奮戦に依り生きて還ることを得たり」と。
忠之助、内記の大阪に還るや、京橋辺市民家財を船載して逃れ紛擾甚だし、亥の刻(午後十時)頃登城復命す、藩相萱野権兵衛曰く、「幕府の騎兵等帰り報じて曰く、伏見方面の我が軍は藤の森に至り大砲二門を装置し、鳥羽方面は東寺に至る」と、殿中皆之を賀す其の実況果たして如何と、忠之助曰く「然らず陣将田中土佐は八幡に退き、堀半右衛門隊、佐川官兵衛隊等は槍を入れて奮進せり、然りと雖も幕兵淀より退きて八幡方面に至る者相接す、且死傷頗る多し是方略宜しきを失うの致す所ならん、此の如き大兵を一方より進めたるは策の得たるものにあらず、唯京兵の標的となれるのみ、兵を各所に部署し或は側面或は前後左右より進撃すべきなり、敵は薩長のみ其の他多くは観望を事とするに過ぎず、方略宜しきを得ば必勝を期すべし」と、乃ち之を審に我が公及び松平定敬朝臣に陳す。我が公曰く「然り善く熟考せん」と、戸田肥後守も亦戦況を聞かんと欲す、是に於いて忠之助、内記、小野権之丞と共に陸軍局に至りて之を陳ぶ。
慶喜公四日の朝を以て大阪の薩邸を討伐すべきを命ず。蓋し京都大阪の薩邸及び兵庫碇泊の薩艦を討伐せんとするなり、前日我が藩丸山房之進大阪の薩邸を偵察す、家財を船載して遁逃せんとすの状あり、即夜之を討伐すべきを論ず、然れども我が兵は固より幕府に随いて四日の早天を期するが故に、今遽に變更すべからずと為し議遂に行われず、三日の夜半幕将天野加賀守及び塙健次郎、吉田直次郎等歩兵を率い大砲二門を曳かしめ薩邸に向かう、我が陣将(正規兵以外に丸山隊、町野隊を編成し之を一陣と為し※、家老上田学太輔を以て其の陣将となせしなり)家老上田学太輔、丸山鎭之丞、江戸学校奉行町田傳八隊兵を率いて従う。
初め我が陣将の出づるを議す、学太輔奮って曰く、「我年老い国家に盡すの日なし請う自ら往かんと出でて之に従う、全兵玉造口城外陸軍所に集合す、幕府酒を賜いて之を犒う。四日の寅の刻(午前四時)頃両方に火光を望み皆憂慮して謂へらく、本願寺の我が本営ならんと、蓋し薩人土佐佐堀邸を焼きて遁逃せしなり。されば丸山隊、町田隊の幕兵と共に土佐堀邸に向かうや、薩人巳に邸を焼きて逃亡せる後なりき、而して一方上田学太輔は諸兵を率い、幕兵一小隊と共に立売堀の邸に至るに邸内また人を見ず、入りて之を検するに是また巳に遁逃し唯燭光熒然枕衾依然たるを見るのみ。乃ち倉庫を封鎖し、百間堀の邸に至るに亦一人なし、杯盤狼藉爐火未だ燼せず行李山積す。午前諸兵各陣営に帰る。
又回陽艦長榎本武揚、回天艦長柴静一郎、順動艦長某に命じて兵庫碇泊の薩艦を討たしむ。各艦駛せて進撃す。薩艦皆遁逃す、唯一艦を阿波の海岸に追躡(ついじょう)【追跡】して遂に撃沈したり、或は曰く「此の薩艦は客年【昨年】十二月江戸品海より遁逃したるものなりと。
※町野隊⇒町田隊の誤りか?と思われる。
【泣血録】
四日黎明。我兵衝進敵。敵伏竹叢中、而我兵四面皆火。為其所狙撃。幕兵聞我急也。疾驅來援再進衝敵。時天巳明。東軍大喊【叫】進攻。砲弾銃丸連発如雨。山川盡震。西軍不能支。連奪其三柵。東軍戦疲。因収兵。會伏見兵敗還。兵勢大挫。西軍又進。東軍退守淀。會兵我兵短兵進破敵。追至下鳥羽。幕兵代守之。巳而又失之。於是幕兵與會津我兵在淀。大垣與幕會在八幡。我兵與幕兵在橋本。
【鳥羽へ御使並大坂引揚の一件】
四日未明に伏見に当り火の手上り勢盛なり。西は薩邸盛に燃立つ。此時御小姓下宿は御城大手表御門内大坂御城代屋敷内。さてその日当番の為に代合で御城御殿へ罷り出候処、同勤奥番安藤監冶申候には、昨日伏見戦争苦戦につき陣将田中土佐始め隊長の面々へ右御尋として御手元御使仰付られ候間、自分罷越すべき旨申につき、我申候には貴殿は先に京都にて竹田街道へ御勤めの事あれば拙子此度は相勤然るべき旨申し是に極まる。副使は御膳番にて加藤内記なり。
正午に御城乗り出し守口町手前にて我が御使番大場小右衛門戻るに逢う。依って様子尋ねたるに、伏見敗走し淀迄引揚大砲頭林権助手負、同組頭中沢常右衛門、依田源治等討死、其他数人これある由。陣将田中土佐も淀に居候趣なりと。夫れより鞭うち急ぎ候処負傷共は釣台にて大勢引取り、田中土佐は八幡村へ引揚べしとて兵隊をまとめ八幡への分れ道にて逢う。御意の趣は昨日苦戦之趣今暁聞き召させられ御案じ遊ばされ候。依って御尋ねさせ鰹節下され候。尚此上精々粉骨相尽候様申し伝え、様子等段々承り、なお組頭一柳四郎右衛門【「左衛門」の誤り】、木村兵庫へも委しく承り候処、幕兵何分相振わず却って瓦解の種と相成候間八幡は御家一手、山崎は桑名様一手にて持候つもりの由なり。
それより乗り出し行きしに幕兵始め諸隊共に淀より引揚の人数大勢にて漸く通行淀町に至れば幕兵始め充満せり。淀橋を通りしに弾丸頻りに来り、橋向かいには隊長上田八郎右衛門(※800石番頭)隊下を率い居候につき御意の趣申し伝え、是よりは玉先烈しく馬上叶い難き故馬を繋ぎ案内を頼みにし、組士樋口丈助を差出くれ候につき是に随い行きしに、大砲隊組頭海老名郡冶居候につき、是よりは是に随い行く。途中弾薬車これ有り。海老名この世話など致し一同引連れ候。
鳥羽村に至れば幕兵始め村民も居らず誠に寂寞(せきばく)ある様御家御人数ばかり三、四人づつ所々家蔭にて鉄砲を打ち居候のみ。然るに向こうより両三人戻り来る者あり。何れへ参ると郡冶承れば弾薬不足の由答うるにつき、弾薬は此方にて持参せり急ぎ戻る可しと勢を付け追返す。同村に隊長堀半右衛門罷り在候につき御意の趣申し伝え候処有難仕合に存じ奉り候、私はこれ迄手に逢い申さず是より進み候として、一盃頭巾を冠手槍にて組士召連れ弾丸の来り候を構わず大声をかけ進みければ、お目付高橋秀之進申しけるはかようの処へ只々進み候とてそれにて宜しきと申すにもこれあるまじきと申し候。
このところ、誠に弾丸烈しく来れり。それに海老名一同先へ馳せ抜け、大砲頭白井五郎太夫に(林権助手負組頭組士等多く討死故白井隊へ合併)に面会御意の趣伝申すべしと進み候処大小砲の弾丸来り進み兼ね、民家の陰にて見合わせ居候処、向かいの家陰に組頭小原宇右衛門居りて何れへ通り候哉と頻りに申につき、御用にて通り候趣答候へば、とても通行叶難く扣へ候様且海老名も共に進み難しと申候間、拙者承知致し本人へ伝え申すべき旨申すにつき其意に随い御意の趣同人へ申し伝え、此より戻らんとする途中、別撰隊頭佐川官兵衛に逢う。組士をロットに組立て是より直に槍を入れ候とて大いに勇み進めり。
追々夕刻にも至り且つは早く帰城見聞之趣存意申上げ度く引戻し乗切参り候処、淀橋の上玉引甚しく淀町中頃迄参るに加藤内記後れて来らず。依って少しく戻れば加藤下馬致し誰にや応対致居候処、直様罷越候につき一同乗切り戻り、途中にて承候処総督松平豊前守殿、竹中丹後守殿に呼び返され、内府公此敗軍の様子御承知に相成候ては御東下の程も計り難し。不肖ながら私共罷在候内は決して御案じ下されざる様、万一御東下の御沙汰これあり候とも肥後守様に於て屹度御尽力くだされ※度く、尚主水正殿へも面会右之趣申しくれ候様御願御伝言の由。それより戻りに途中幕の騎兵共一同に相会候処何れも口々御家之働きに感じ、中には三日の夜は伏見にて四方敵且は火に取巻かれ、とても活路これなき処御家御人数の御働きにて切り抜け無難に帰り、誠に恐れ入りたる御働き御陰にて身命を拾い候などと申者もこれ有り。右の騎兵共は先へ馳抜け戻れり。我等は食事致し馬にも餌づけ夜四つ時(午後十時)頃にもこれあるべく帰城致候処、京橋辺町方は品物皆船へ積込み立退の用意、其混雑申すべき様なし。
※すでに4日の時点で松平豊前守、竹中重固によって慶喜の東下が懸念され、しかも万一の時は容保に引き止めを依頼している…が、一緒に東下してしまいました…o( ̄ー ̄;)ゞ
【戊辰戦記結草録】
四日昧爽命を受け淀に退陣す。別撰組(佐川官兵衛是に将たり)即ち朝食を喫し尋ねて鳥羽口の死傷者来るを以て鳥羽口へ応援せんと乞い砲一門を挽いて進む、桑名藩又退くに逢う。敵追撃川向いの竹林中に入ると云うを以て、予及び杉本弥三郎、今泉勇蔵、大岩元四郎、小船に乗し火を竹林に放って帰る。然るに宇治へ出兵すべき者を伝ふにより即ち出発す。事誤れるを以て途中より帰る。時に鳥羽口の我が軍勝利あらさるにより我が隊淀より進む。時に左竹林より敵の伏兵起こり発砲、我が隊退く事一丁余、隊長並組頭小池勝吉軍目遠寅次郎及び予なお踏み止まって発砲す。其余兵後方に要地を相して壁を設けて戦う。後、隊長及び予等亦退いて壁中に入る。敵益々進来して発砲、我また烈戦す。終に本道並びに竹林中の敵を討退く。堀隊別撰組林隊の残兵来援す。先駈伊東覚次郎継で惣隊下鳥羽村迄尾撃し、小池勝吉敵一名を斬る。首級は寄合組板橋某に与える。人其功に代らざるを賞す。其の他敵六、七名を斬る。夜に及び先鋒を上田八郎右衛門隊に譲り淀へ帰陣す。此日我隊死傷、死
坂部虎三郎、武田俊馬。 傷
草刈行衛(後死)、杉本弥三郎、日向勝治、安部井留四郎(後死)、和田仙六(後死)。
【浪士文久報国記事】
一月四日朝八時頃薩州鳥羽街道より押寄せる。こちらは会津兵と新撰組が応戦、薩州は大敗軍、ついに鳥羽街道宿々へ火を掛け退く、薩兵討死多し。
【島田魁日記】
四日上鳥羽街道にて会桑と戦争する。少しく敗して下鳥羽迄退く。当隊淀城下に陣す。
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