慶応4年1月5日

 五日朝西軍は鳥羽・伏見両道より進軍。
 上田八郎右衛門隊は淀橋を隔てて防戦するも苦戦、伝習隊も善戦し佐川官兵衛も槍隊を潜ませ更に銃手数人を率いて奮戦する。
 白井隊は淀にて砲声を聞き、上田隊を援けようと淀に向かい激戦、幕兵が大砲を曳いて退却するを見て組頭松沢水右衛門が止め大砲を奪う。組頭小池勝吉弾丸に当り斃れる。又、白井五郎太夫は兵を励まし戦うが重傷を負い後送されて淀の病院に送られる。また、組頭の松沢水右衛門や海老名郡治も重傷を負う。

 伏見の東軍も破れ、西軍が淀市内に入り市中火が起り、会津兵は敵に囲まれ全滅の危機に追い込まれるが、大垣兵の来援で窮地を脱し退却する。

 また、佐川官兵衛は刀を奮って指揮をしていたが、弾丸が眼を掠めて刀を折り、尚、折れた刀を杖代わりにし、左手には雨天傘を差し弾丸が雨の様に注そぐ中、闊歩してあるく。慶喜この官兵衛の勇猛さを称して伏見口の軍事を託した。

 敗退した東軍の兵が淀城に入ろうとした時、淀藩は西軍に通じ東軍の入城を拒否する。

【会津戊辰戦史】

 正月五日黎明京軍伏見鳥羽両道より進んで淀の阪軍を撃つ、我が上田隊淀橋を隔てて防戦すと雖も、京軍の砲撃甚だ急にして我が隊士死傷する者多し、隊長上田八郎右衛門衆を鼓舞すれども、路は唯一條左右皆深溝にして進退便にならず、幕軍大川正次郎、瀧川充太郎、伝習隊を率いて善く戦い淀の城外に在る者之に応ず、此の時佐川官兵衛槍隊を蘆葦中に伏し更に銃手を出して挑戦す。京軍伏あるを知りて進まず、長州振武隊将石川厚狭介曰く、「危を視て苟も避く笑を取るを如何」と、乃ち銃手数人を率い挺前して之に當る、衆奮って曰く、「大将を敵に遺する勿れ」と先を争って進む、阪軍の一隊退く事三丁許、我が藩の槍隊左右に起り、縦横に京軍の中堅に突撃し隊将石川厚狭介等を殪す。白井隊淀に在り、朝餐を伝えんとするに當り偶々鳥羽の方位に砲声起る。因りて上田隊を援けんと、左手に銃を執り右手に握り飯を摑み且食い馳す。

 京軍砲銃及び散弾を発すること雨の如く本道を進むこと得ず、或は堤下を進み或は人家に潜み且戦い且進む。堀隊も亦淀に在り、砲声を聞き直ちに馳せて上田隊を援け、淀街道の人家に潜みて射撃す
 京兵昨日敗衂の辱を雪がんと、一斉に來り迫り猛烈前日に倍す。我が兵も亦奮激豨突或は進み或は退き殊死して戦う。散弾は屋瓦を破り竹木を折り勢い甚だ盛んなり。幕兵大砲を曳きて退く。我が藩大砲隊の組頭松沢水右衛門等追いて之を止め、水右衛門大声に叱咤して砲門を奪う。白井五郎太夫に怒って曰く、「此の地敵の破る所とならば何の面目あって世に立たんや止りて奮戦せよ」と。組頭小池勝吉聲に応じ衆に挺んて健闘して死す。上田隊の組頭中根幸之助も亦衆に先じて奮進し、縦横に馳驅し衆に令して槍を入れしむ、隊長上田八郎右衛門、隊長堀半右衛門も亦共に采配を振り、大声進撃を令し槍を入れしむこと三度、而かも京軍の連弾甚だ烈しく、一丸(中根)幸之助を貫く。幸之助辱を貽すべからずと叫び刀を抜き咽喉を刺して死す。飯田初次郎首を馘す。堀隊の組頭三宅八次郎衆に先立ちて進み、令する時亦弾に中る乃ち刀を抜いて自刎す。かく将長死傷し隊士も亦死傷する者多し、五郎太夫既に傷を蒙るも顧みず、自ら砲を発して衆を励まし遂に重傷を負う隊士之を後送して淀の病院に移す。途幕府の目付田中林太郎來りて慶喜公の命を五郎太夫に告げて曰く、「昨日の劇戦捷を得たり満悦の至りに堪えず、褒賞は汝の欲する所の如くせん」と、五郎太夫痛苦を忍び謝辞を述べ終わりて瞑す。白井隊組頭海老名郡冶、同松沢水右衛門も亦重傷を被り(※)、其の他我が兵多く死傷す。白井隊目付遠山寅次郎及び白井隊士なお止まりて砲戦す。京兵の勢最も鋭し。我が兵散兵に展開して横撃せんと、堤を下り蘆葦の間に入りて銃を発す。背後ニ三丁に在る我が兵頻りに大砲を発す。其の弾恰も我が軍の頭上に破裂す。

 ※海老名郡冶の日記によると、郡冶は右の足を怪我し大阪に送られている。

 伏見街道の阪軍も亦敗れ、京軍所々より潜に淀に入り、大砲銃を乱射す。市中火起る。我が兵腹背敵を受け進退維れ谷り皆殊死して戦うと雖も殆ど支えず、會々大垣藩の兵一中隊許吶喊(とっかん=ときの声を上げる)して馳せ來り援く、我が兵激戦数日且疲れ且飢ゆ、大垣藩の兵一時奮戦すと雖も忽ち退く。我が兵漸く退却し尚路傍の人家に伏して戦う。後高松藩、松山藩の兵來り援くれども支えず、諸兵皆敗れて淀橋を過ぎて退く。時に未の刻(午後二時)頃なり、死者は多く淀の寺院に葬り傷者は一柳幾馬等周旋して運粮の船に載せて大阪に下す。白井隊士等再戦して此の恥辱を雪がんと、淀の城濠に下りて銃を洗う弾丸連りに注ぐ。

 此の日早暁淀大橋前方より外島泰助淀の我が軍事局に來りて曰く、「京兵伏見街道より來り迫る速に幕府の援を請う」と。田中八郎兵衛馳せて之を本営に告ぐ、帰途巳に伏見堤に砲声の起るを聞く、伏見堤は別撰組、新撰組、幕府の大砲隊を先鋒とし林隊之を援く。松田昌次郎等小林繁之助をして林隊の組頭小原宇右衛門に出兵を促さしむ、會々宇右衛門悠然として鏡に対して自ら梳る。顧みて曰く、「急迫にすること勿れ」と、暫くして諸兵と共に発す。蓋し宇右衛死を期し髪を梳りて容儀を整えしなり。

 佐川隊及び林隊京軍の陣地を隔たること三丁許に吶喊して路の中央を進む。京兵大砲を発して拒ぐ、我が兵之を避けて左右の堤蔭に分れて応戦す。此の地点は淀の市外ニ丁余なり、京兵発砲殊に烈しく殺気天を衝く。佐川官兵衛大に奮って槍を入れしむ、衆皆争い進む。我が兵多く死傷す。隊士金田軍助、望月新平淀を隔たること四丁許に進み松樹の陰に倚り京兵の來るを待つ。京兵我が兵の奮進して槍を入るゝを懼れ皆辟易して退く、長州藩の教導官某小旗を振るって衆を励し遁るゝ兵を斬りて來り迫る。軍助、新平踴躍して進む。軍助傷を被る。新平直ちに進み槍を揮ひて教導官を刺し其の首級と小旗とを獲たり。是を此の日の一番槍とす。

 伏見方面長州の隊長某年十八善く兵を指揮す。隊兵皆髪を截る蓋し若し敗衂せば衆皆生還を期せざるを誓いしなり。官兵衛益々勇を奮い刀を抜きて指揮す、偶々銃弾側面より眼を掠めて傷く又胸に中る。時に官兵衛胸甲を擐【貫】く故に傷かず、又弾丸佩刀に中りて刀折る、組頭小櫃守左衛門代わりて指揮す、士卒皆奮い戦傷者を顧みず屍を踰えて争い進む故に多く死傷す、巳にして守左衛門も亦左肩を傷く、在竹五郎太、林治助等大砲を曳きて弾丸雨注の間を直進し京軍に接して発射す、其の勇敢人をして驚かしむ。組頭小原宇右衛門林隊の残兵を指揮し衆に先ちて戦う、勇気凛然重傷を被ることニ度、以て今朝自ら梳るの決心明らかにせり。

 京兵或は淀川を渉り或は松樹に攀じ【すがりつく】或は竹叢中に潜匿して烈しく銃を発す。我が兵殆ど支えず、幕府の大兵淀より來るも進んで戦わんとするもの僅かに三十人許、土方歳三新撰組三十人許を率い路の中央を猛進せしが、京軍の銃勢烈しければ左右の堤蔭に分れ我が兵に合して戦う。時に幌役林又三郎(林権助の子)路の中央に踞し、銃を執りて頻りに戦いしが又銃丸に傷く、乃ち自ら咽喉を刺して死す。
---<中略>---
 我が兵淀大橋を焼かんとしたれども能はず、阪軍淀の城に據りて京兵を防がんとし、淀藩に交渉したるに淀藩納れず、藩主稲葉正邦朝臣は現在江戸にて老中たり、且稲葉家は春日局以来徳川家とは特殊の関係ありたるものなれば、徳川家危急の際に此の如くならんとは意外のことなりき、只我が藩に於いては稲葉家は親戚なれども初より之に重きを置かざりき、巳にして幕兵大砲一門及び弾薬を路上に遺棄して去る。我が兵も亦往々退く。佐川官兵衛右手に折れたる刀を杖つき、左手に雨天傘を披きて之を持ち、弾丸雨注の間を徐歩して大橋を過ぐ、傍人曰く、「危険なり疾走すべし」と、官兵衛肯ぜずして曰く、「弾丸は中るものにあらず」と、蓋し傘を用いしは眼を傷くが故に日光を防がんとせるなり。
---<中略>---
 白井隊の残兵及び目付遠山寅次郎等淀に止まる。田中八郎兵衛を見て曰く、「全隊退くは何ぞ余等も亦退く可ならんや」と、八郎兵衛曰く、「全隊の退くは余其の故を知らず、然れども今君等寡兵を以て止まるも效なし退くべし、他日の責は余之に任ぜん」と共に退き八幡の近傍に至る。幕人某曰く、「此の地は余善く兵を配して戦はん、貴藩の兵は八幡を防戦せよ」と、八郎兵衛馬を馳せて八幡に至り之を陣将田中土佐に告げ、軍議中幕兵皆退きて一人の止まる者なし、故に我が田中隊(所謂二番組にて、陣将田中土佐自ら率いるものなるが、此の時迄戦いに参加せざりしものの如し甚だ怪しむべし)生駒隊も亦退く。八郎兵衛淀街道に復り進んで斥候す、堀半右衛門兵を率いて止まり守る。半右衛門慷慨して曰く、「幕人某余に命じて此の地を守らしむ、而して幕兵皆退く、我が兵昨日以来大いに苦戦し死傷も亦多く甚だ疲弊す、我が一隊のみ止まると雖も孤軍を奈何せん」と、八郎兵衛曰く、「初め幕軍の約束は兵を此の地に配置して防戦するにありしに、今皆約に違いて退く君等亦宜しく退くべし我其の他なきを保せん」と、半右衛門兵を率い八郎兵衛と共に退き葛葉村に至る、幕兵我が兵共に在り、佐々木只三郎見廻組を率い橋本前方に胸壁を築きて厳守す、関門は小浜藩の兵大砲数門を装置して敵に備ふ、桑名藩の兵は八幡山に在り。


【会津戊辰戦争】
 同五日前夜來西軍に備えある上田八郎右衛門、生駒五兵衛、堀半左衛門等の諸隊は警戒至厳を缺き、畳を利用せし胸壁を解き之に臥す。西軍諜して之を知り、猛然攻勢に転じ來つて之を襲う、東軍防禦の便を失い周章之を防ぎ苦戦名状すべからず、将さに守地を棄てて潰走せんとす、白井五郎太夫、林又三郎等砲声起るを聞き、朝食を取る暇なく握飯を喫しつつ、疾駆して之に赴き、樹木叢陰等を利用して防ぎ戦う、砲は前日の戦闘に於いて率ね破損せしを以て、僅かに一門を以て西軍に當る。組頭松沢水右衛門、部下杉浦佐伯等之に任ず組頭小池勝吉突進して斃れ、海老名郡冶亦傷つく東軍意気敵を呑むも武器西軍に敵せず、各刀槍を以て拒ぐ、西軍新鋭を加え砲撃益々急なり、五郎太夫肩に負傷す、なお屈せず衆を督して戦う。又一丸来て其双肩を貫き遂に斃る。又三郎亦死し佐伯次て傷つく、顧みれば炎々たる猛火淀の城下に起り戦況益々非なり、大垣兵來り援くるも遂に敵せず、戦い且つ退きて橋本を保つ。

 伏見方面の西軍亦攻勢に転じ東軍を破って來り囲む。田中土佐當面の會兵を督す、佐川官兵衛刀槍隊を各處に伏せ、砲を淀橋に置き西軍の至るを待つ、西軍伏あるを知り逡巡進まず、長の石川厚挟介憤慨集に先んじて突進す衆之に次き勢い頗る猛烈なり、官兵衛奮然として進み戦う、勝敗容易に決せず、厚狭介伏に陥り胸部を貫かれ尚屈せずして進み、ニ三の隊長之に死す、東軍亦死傷多く死屍堤下に充つ、官兵衛刀を揮い衆を督す、一弾来て刀を折る短刀を抜いて突貫す、西軍遂に退く、一弾又来て官兵衛の右眼を傷つく、官兵衛平然として奮闘す、西軍再び来り攻む、佐藤主計之に死し組頭小櫃宇左衛門傷つき損害頗る多し、林隊の組頭小原宇右衛門残兵を指揮し刀槍を以て突貫すること三回、時に宇右衛門前夜の戦いに重傷を負い、槍を杖つき激励疾呼しつつありしが、又ニ丸を被り再び戦う能はずして八幡村に退く、東軍淀城に入らんとせしが、城兵叛いて西軍に通じ拒んで入れず、因て橋本に退く、於是東軍悉く敗る。
 此時に當り山崎の砲台を守備せる、津藩藤堂和泉守高潔亦叛て西軍に降る、東軍未だ之を知らず、慶喜官兵衛の勇を賞し自署して伏見口の軍事を託す


【会津藩大砲隊戊辰戦記】

<林隊>
 五日黎明より伏見鳥羽の両道一時に開戦の砲声聞ゆ。小原組頭隊員を点検し進で伏見口に向かう。敵間近く進来し淀町を去る数丁に開戦するも、敵は地の利に委敷、川を徒渉迂回し又は船を淀川に出し側面より射撃する等味方の不利多く、頗る苦戦の央組頭小原宇右衛門銃丸を受くること二個、豪勇の小原組頭も昨夜伏見奉行屋敷の戦いに負傷し槍に縋りて指揮する身が重て二弾を蒙り隊を進退する能はず。
 戦況次第に淀町に圧迫せらるに至り、遺憾にも退却するの止むなきに及びて八幡村に退陣午飯す。此日の戦いも頗る苦戦にして槍を以て突貫すること三回に及ぶも、遂に退却するの止むなきに至る。
 此日戦死、隊士矢ヶ崎五郎太、水野兵庫、小泉久吾、林治助、中村鎌二、御子柴市松、長谷川源三郎。 手負、組頭小原宇右衛門、隊士赤垣酉四郎、小出信助、遠山忠治、渥味忠三郎、安恵誠三、石川三郎。

 八ツ半(午後三時)頃陣将より林、白井の両砲隊の義は数日の戦争にて疲労致したるによりひと先ず大阪迄引上べきの命ありて八幡関門に至るに同所は酒井雅楽頭の人数大砲を備え武備を厳重にす。川向山崎関門には藤堂和泉守手にて警備す。幕府の大砲方は一同白鉢巻にて来るに会す。今や我が藩の両大砲隊引揚ぐるに就いては失望すべし。故に我等も止て此関門に防戦すべし。一四名の者は葛葉村に宿す。兵糧方杉田秀之進周旋甚だ勉む。
 此日迄身に負傷なく従軍する者、百卅一人の全隊中僅に廿六名其氏名、松田昌次郎、巨海源八郎、中村鎮之助、牧原源蔵、新美民弥、渡部重治、武藤忠吾、渋谷寅彦、島田士津会、木野源五郎、黒河内権之助、上田恒治、山室佐武平、大場秀四郎、高山伝吾、和田清治、新藤熊之助、増子庄吾、高山勇弥、小林繁之助、南葉誓三郎、大塚録四郎、江川卯三郎、細谷栄治、 目付井上杢八、 医師山内玄昌。

<白井隊>
 五日卯の半天(午前七時)鳥羽伏見両道より敵軍一斉に襲来し砲声頻りに劇し、時に鳥羽方面の上田隊危急なりとの事に未だ朝食を喫するの暇なく手に食を摑み行く々々食して前夜の位地に走せ付く。此日は敵の全力を以て逆襲し来り、殊に砲弾の飛来甚だしく堤上左右の樹木に破裂し樹木の裂折甚だしく地上に散乱し交通を妨げ、殊に堀隊は未だ銃戦の経験なきより前夜築き置きたる畳の胸壁は堤上に露出して防戦するの困難あるも、隊長必死の号令に一同決死の覚悟にて少しも遅疑せず一歩も退くものなく戦うこと早天より午の刻頃に至る。不幸にも昨日の戦いに大砲は破損し一門の用ゆるものなき不利あるなり。僅かに幕府の一門の砲を以て勢を助けたるも、幕人は遂に大砲を以て退却せんとせしより、組頭松沢水右衛門、甲士杉浦佐伯追止め之を我が隊に奪い用ゆるに至る。
 此時、白井隊長は怒気満面憤激して曰く、「此を敗られて誰に面を合わすべき、此を死所とし戦うべし」と組頭小池勝吉衆に挺て奮闘するに面々之に励まされ苦戦中小池組頭弾丸に当って斃れる。続て(白井)隊長も丸に当り重傷を負うも猶口に進め懸れの声を絶たす。隊長組頭の死傷に一同力落ち銃を取るの勢力も尽んとするに、加えて杉浦佐伯も重傷を受け味方は次第に死傷し銃を取て戦う者次第に減じて味方より打出す砲銃の音も稀なるに至る。

 後方を顧みれば敵の砲弾の為に淀城下に火災起り、伏見街道は巳に淀町口に追い込まれたるの状況を見るに及びて、士気沮喪敗走せんとするの苦戦の場合、大垣藩の兵一小隊程来て応援す。此助けにより暫時の間を得て白井隊長小池組頭杉浦甲士等を後送するを得て徐々淀城下大橋に至れば諸手の敗兵引上げ来る。船を以て死傷者を大坂に送らんとするも得ず。百方奔走僅かに二三艘を得て隊士にて船を棹し僅かに大坂八軒屋に着することを得たりと。此日の戦いの退き口に大垣兵の応援なくば、隊長以下の死傷を後送し能はざる、而巳ならず全隊の引上げは不可能にして全滅するに至りやも知るべからず。
 此日戦死、隊長砲兵奉行 白井五郎太夫、組頭 小池勝吉、 隊士 山本新八、赤羽恒次郎、岸武三郎、加藤蔵三郎、高橋兵治。
 手負、 組頭 松沢水右衛門、海老名郡治、 隊士 杉浦佐泊、江上又四郎(後死)、清水八郎、大竹梶之助、伊藤覚次郎(後死)、古田次郎、大岩元四郎、服部五郎(後死)、村岡滝三郎(後死)、手代木善助、渡部次郎、相川市太郎、篠崎左一、荒川一郎、川名佐久治、小林森之助、松崎市太郎。

 本隊は淀より他の諸隊と共に漸次後退して八幡関門に至り休息す。其際陣将より連日の苦戦にて一と先大坂へ引取るべきの命あり。引て枚方に至て宿す。


【鳥羽へ御使並大坂引揚の一件】

 五日の頃か内府公仰せに「加様の形勢に相至り候ては充分力を尽くし、万一爰が敗け候へば関東と申すもあり、又是が敗れ候共実家の水戸と申すもこれあり、何れ迄も存分を尽し候」と立派に御沙汰あり、誠に御奮発の由なり。
 さて、此度御家の働き殿中にて大いに評判、口々に申居り候を御隣部屋桑名様御家来共誠に羨やみ候。

 

【七年史】

 五日黎明、西軍両道より淀に迫る、幕軍瀧川充太郎、大川正次郎(※1)等、伝習隊に将として、能く戦ふ、会の佐川官兵衛は砲兵隊及び旗下兵一大隊と謀り、予め精兵刀槍を携へ、處々の藪中に埋伏せしめ、一隊は淀川堤より進撃して、且つ退き、且つ闘ふ、薩長の兵、追撃すること急なり、東兵退くこと三丁余、西兵進んで堤上に在り、官兵衛等大叫し、直ちに闖入して、縦横に敵を斬る、会の砲兵隊左翼よりし、正面の旗下兵返し来て之に迫る、西軍大敗して、桃山に走る。
 是時会兵刀槍に数多の敵首を貫きて、追撃すること久しかりしも、丹後守の号令一ならざりしかば、全軍を動かして桃山を抜くことを得ず、鳥羽街道の白井五郎太夫、孤隊を挺して、敵に當る、敵兵辟易す。望月新平は、進で一将を仆しけり。
 五郎太夫之に死し、将長多く殪れしかば、東軍皆退きて、淀の橋を隔てて戦ふ。東軍淀城を借りて、防がんとし、之を藩庁に謀るも、藩庁拒んで入れず。時に藩士等、己が主君を售て【売りて】、款【よしみ】を西軍に通ぜしなりけり(※2)
 斯くては前後敵を受くるの虞(おそれ)無きを保せざればとて、東軍は橋本に退きけり。

 ※瀧川充太郎は旧幕軍伝習士官隊隊長、大川正次郎は旧幕軍伝習歩兵隊隊長である。共に箱館戦争まで戦った。
 ※淀藩は、鳥羽伏見の戦いが勃発すると藩論が二分し、幕軍が敗戦を重ねる淀城に至ると、淀藩は城門を難く閉ざし、受け入れを拒否し西軍に通じた。時に藩主稲葉正邦は江戸に居て藩の対応には関与していない。

 

※文献に関しては、管理人が現代語に近い形にするために、多少の意訳を含めて、
句読点や「」をくわえ、片仮名表記を平仮名に変え、送り仮名を追加し、読みやすい現代語の文章に改めてみました。

文中の()内は主に読み方、【】内は言葉の意味となっています。意味の不明のものや現代語約が不明のものは、原文のまま紹介してあります。
追々不明や間違い等のものについては、判明次第追加していきたいと思います。
間違い等気が付かれた方は、ご指摘頂けると助かります。