慶応4年1月6日 

 
 この日見廻組、桑名藩兵等と共に会津兵町田隊・上田隊も橋本にて戦闘し苦戦、見廻組の佐々木只三郎も重傷を負う。此の時、藤堂藩守備する山崎関門より砲弾が飛来し会津兵は多くの死傷者を出す。

 また、家老内藤介右衛門と山川大蔵が枚方へ視察に来て、此の時、林隊・白井隊の残兵を纏め「砲兵隊」として新たに隊長に山川大蔵が就任した。

 また、この日の深夜徳川慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬等を連れ密かに大阪城を脱して天保山を目指した。

【会津戊辰戦史】

 正月六日幕府の目付某、松平豊前守の陣営に至り慶喜公昨日の命を伝ふ、衆皆感激し士気為めに大に振ふ、早天佐々木只三郎見廻組を率い橋本駅東の路上を穿ちて胸壁を築き、桑名藩の兵小浜藩の兵と共に守る。町田隊、上田隊も亦近傍に在り、生駒隊の兵関門を守る。戍の刻(午前八時)頃京兵三方より橋本を襲はんとす。乃ち幕府四中隊と町田隊を合し、又分ちて二隊となし路の左右に備ふ、幕府大砲二門町田隊も亦大砲二門を装置し整然として敵兵の來るを待つ。巳にして橋本の東八幡と本道との岐点に兵十余人あり、淀及び八幡に向って発銃す、一発毎に橋本に接近し來る。今泉伝之助之を望見して曰く、「疑兵なり」と、即ち小浜藩の兵をして之を砲撃せしむ、京兵又淀川を渡り來りて銃撃す。巳にして京兵徃々松林に隠れ、或は堤蔭に據り連りに砲銃を発射す、佐々木只三郎兵を督し町田隊、桑名兵、小浜兵奮って大小砲を発して戦う。只三郎銃弾髖(こしぼね)に中りて重傷を負う。
 此の時に當りて山崎の方面より百人許、白旗を掲げ小鼓を鳴らし山崎関門に入る。我が士見て走りて之を外島機兵衛に告ぐ。機兵衛之を軍事局に報ず。又関門より一中隊余天王山の方面に行くを見る、暫くして號笛の聲起るや山崎関門より連りに橋本及び関門を銃撃し次いで大砲を発射す、我が兵亦之に応じ大小砲を発して戦う。幕兵我が兵多く死傷す。八幡山連続の山上に在りし桑名藩の兵能く大砲を発射し、弾丸山崎関門に至りて爆裂す、橋本関門を守れる生駒隊全部、桑名兵及び小浜兵一小隊許山崎に向って砲撃す。

 後江戸にて藤堂候使いを我が藩邸に遺し、謝して曰く、「前日山崎関門にて弊藩の兵貴軍に向って発砲せしは、官軍より迫られ已むことを得ず砲口を高く仰がせ責を塞ぐのみに発せしなり。然るに貴藩兵の屯所に弾丸至ると聞く実に分疏(ぶんそ)【申開き】に詞なし、右につき在江戸の弊邸を貴藩兵焼き討ちするとの流言ありさいわいに寛怒せられよと、藤堂候又上野法親王に請ひて内府に分疏し又我が公にも分疏を請ふ、故に法親王使者を我が邸に遺して説解して給ふ、此の頃の津藩の挙動こそ浅ましくきたなけれ。


 上田八郎右衛門隊は橋本を出て関門に入る然れども砲戦には便ならず、故に又関門より二三丁下方の堤に據り斜に山崎関門を砲撃す。堀半右衛門隊、組頭門奈冶部等進みて淀川を渡り山崎関門の側面より進撃せんとす、舟なくして渡るべからず乃ち堤畔に伏して発射す、たまたま津藩の兵三十人許り川を下るを見て之を銃撃す、橋本の諸軍利あらず、町田隊も亦弾丸巳に盡き上田隊、生駒隊と共に退却の止むなきに至る。既にして山崎関門の京兵、阪軍の退くに乗じ淀川を渡りて至り、橋本方面の京兵も亦群り進みて関門の我が空砦に入り大聲凱歌を揚ぐ、此の時橋本の兵火盛んにして焔烟天に漲る。
 此の日戦に京兵偽りて新撰組の中に伍するものありしが後露はれて斬らる。幕兵我が兵及び桑名、小浜の兵皆枚方に退く、辰の刻(午前八時)頃田中土佐隊兵を率いて枚方に至る、幕兵及び大垣藩の兵在り、共に鳥羽の戦に将長多く戦没す。故に残兵を此に休養せしむ、我が林、白井両隊の残兵も亦此に休養せり。
 午の刻(正午)頃我が藩相内藤介右衛門、表用人山川大蔵(浩)大阪より枚方に來る。林、白井両隊の残兵を合し大蔵大蔵其の頭を命ぜらる。乃ち亦扇を以て隊の標識と為す
 申の刻(午後四時)頃総督正質朝臣及び諸将皆退却し枚方に來りて軍議す、我が陣将田中土佐及び田中八郎兵衛、柴太一郎※等共に会す、八郎兵衛曰く、退くこと此の如くならば底止する所なからん、宜しく此の地を畫し断じて一歩も退却すべからず犯す者は皆斬に處すべしと、竟に其の議に決す。竹中重固、瀧川具擧並に我が藩相内藤介右衛門等共に行きて防戦の地理を観る。たまたま幕兵の守口に退く者陸続相接す、八郎兵衛、太一郎及び大野英馬葛葉方面に至りて斥候す、田中土佐隊は枚方近傍の山上に待つことを約す。

 ※柴太一郎⇒柴五郎、柴四朗の兄。公用方。

 竹中重固、瀧川具擧、内藤介右衛門等守口に至る。若年寄永井尚志來りて慶喜公の命を伝えて曰く、「深意あり諸軍皆大阪に退くべし」と、是に於て諸軍漸次退きて大阪に至る。介右衛門乃ち田中八郎兵衛、柴太一郎、大野英馬等をして之を我が諸隊に伝えしむ。時に我が諸隊の兵皆疲れて睡る。之を聞きて曰く、「飢え且疲れて一歩も進むこと能はず」と。英馬乃ち近傍に在る小浜藩の陣に至り糧食を乞ふ。未だ至らざるに諸兵眼覚めて速に退かんと欲す。英馬等曰く、「假令敵此に來り戦ひて皆死すとも食はずして退くべからず。小浜藩に対して何とか謂わん」と固く之を留む。暫くありて糧食至る。乃ち或は食い或は斎して発す。諸兵同夜より七日の朝に至るまで皆大阪に至る。此の日我が藩相大阪城中雁木坂邸に至りて傷者を慰し、且曰く、「汽船を以て江戸に送るべし」と。

 此の日橋本の戦い利あらず、全軍守口に退くや大阪城中大に騒擾す。且幕兵萎靡して振はず、是に於て幕府佐川官兵営を歩兵頭並雇に、望月新平、井口源吾等四五人を歩兵差図役頭取並雇に、其の他別撰組士を歩兵差図役並雇に命ず、官兵衛即ち築城兵を率いて守口に至り胸壁を修築して防戦せんとす。金田百太郎曰く、「我が公に謁して発せんと、共に御用部屋の口に至りて之を我が公に告す。我が公官兵衛以下の諸士を召し見て懇篤に慰諭す。藩相萱野権兵衛、学校奉行添役赤羽主計も亦出陣するに當り我が公に謁す。
 此の夜元白井隊士等白井五郎太夫、小池勝吉の遺骸を大阪寺町一心寺に葬る

 六日山内容堂の密使坂井藤蔵、野村糺、東本願寺の我が本営を訪ひ、南摩八之丞、三坂市郎右衛門に面して曰く、「余等老寡君容堂の命を以て昨五日京都を発し、奈良路を経て昨夜大阪に入り、今日早天城に登り永井尚志に面せんとしたれども能はず、依りて貴藩に就いて幸に内府公の意を探るを得ば、容堂は中間に在りて其の宜しきを制するを得べしと為し、余等をして之を詳にせんとするなり、(中略)今薩長の兵皆力を盡して鳥羽伏見に在りと雖も、在京諸藩の兵は皆望観して其の意向一ならず、況や京都金穀弾薬に乏しく、兵も亦寡少にして僧侶をして禁闕を守らしむるに至る。速に大阪の大軍を挙げて京都を衝かば戦わずして事成るべし、若し内府公東下の事あらば天下の事巳みぬ情状如何」と、市郎右衛門、八之丞答えて曰く、「我が重臣及び軍事官昨日城に登り未だ退かず、故に其の詳なることを知らず、貴諭の事は詳に重臣及び寡君に告げて後答へん」と明朝を約す。
 八之丞乃ち両士の説を藩相上田学太輔、内藤介右衛門、諏訪伊助に告げ且つ曰く、「幕兵、我が兵、桑名兵、板倉兵皆儼然として退かず、速に之を集合して京都を衝かば大事成らん請ふ速に勇断せよ」と。三相曰く、「幕兵は今未の刻(午後二時)より紀州に下り東歸すべく、我が兵も亦今夜半より発して紀州に下り東歸するの令巳に発せり。故に士気沮喪し各歸心専らにして一致奮進せしむること難し」と。



【会津戊辰戦争】

 同六日京阪開戦以来中立を保ちたる淀藩は、東軍の不利なるを見款を西軍に通じ、遂に其の先鋒となりて來て八幡村に迫る。町田伝八郎東軍の先鋒となり、幕兵及び大垣兵と與に進み戦う。西軍利あらず将さに潰えんとす。山崎の津藩亦諮跙逡巡し為す所を知らず、遂に西軍の厳促を受け意を決し、側面より橋本の東軍を砲撃す。東軍大に驚く。桑藩時に橋本にあり、叱咤しつつ淀川を隔てて之と応戦す。西軍乃ち兵勢を回復し機に乗じて猛進す。時に東軍連日の敗戦に諸将を喪い弾薬竭き、加ふるに士卒因憊して又戦うの気力なし、唯死を決して戦はんとするもの会桑二藩あるのみ、形成既に斯くの如くなるを以て、遂に西軍に抗する能はずして大阪に退く。(中略)

 慶喜時に大阪城にありて形勢非なるを聞き海路東歸の心あり、神保修理戦況を視察し歸り容保に苦諫して曰く、「前将軍の大政の奉還し軍職を辞せるは勤皇の至誠に出づ、然るに大兵を擁して清側を計るは、名分正しからざるのみならず、前将軍の意思にあらざるべし、謹慎命を待つを得策とす」と、然れども城中の士気激昂進撃を絶叫し敢て之を容るるものなし、修理又慶喜を直諫して順逆を説く。慶喜亦敗報荐りに到るを以て大に驚き、令を諸軍に伝えて大阪城に退かしむ。

 会桑の諸隊大阪に退くや、大阪城の形成を據て東西佐幕の諸侯に檄し、江戸と相策応して薩長と争はんとす、然るに慶喜は事の成らざるを知り、会桑両藩主及板倉勝静を随ひ、倉皇大阪城を棄て、安治川口より兵庫に出て、軍艦開陽丸に乗じ江戸に歸る。時に開陽丸艦長榎本武揚、鳥羽伏見の敗報を得大に憤慨し、不二山、蟠龍、翔鶴の三艦を率て西の宮海岸に在りしが、海陸共同の策戦に依て戦勢を挽回せんと欲し、六日夜尾形幸五郎、伊藤鐡五郎、雑賀孫六※と共に大阪に到りしが慶喜既に去りたると聞き嗟嘆措く能はず。

 ※雑賀孫六⇒会津藩士で一ノ瀬郷助三男。名を喜一。1854年蝦夷北島巡視し、1859年斜里に在勤。後幕府海軍に入り開陽丸に乗る。

 

【会津藩大砲隊戊辰戦記】

<林隊>
 六日早天斥候として松田昌次郎淀に至り敵陣を偵察するに、敵も数日の戦争に疲弊せし体に見えしにより其機を失せず襲撃すべしと評議中、山崎関門の藤堂藩敵に内通し、八幡関門の酒井の陣に発砲せしにより、幕兵も大砲を以て応戦し、午の刻頃迄対戦するも、淀河を隔てての砲戦故勝負の決なきにより、我が隊は川向へ渡らんと堤に添って牧方方面に下たりしに山川大蔵大砲隊長に命ぜられ出張により、其差図により守口に宿陣す。

<白井隊>
 六日大坂着、此夜、白井隊長小池組頭の遺体を大坂一心寺本堂正面の慶長元和大坂陣の戦死者を葬りありし傍らに、他の我が藩の戦死者と共に葬る。此日、林隊と我が隊とを合して砲兵隊と称し、山川大蔵隊長の命を蒙る

 

【七年史】

 六日払暁、西軍すでに来る、東軍大に八幡に戦ふ。会兵町田傳八隊、先鋒たり。秋山下総守の歩兵、及び大垣兵能く戦ふ。
 未の刻、弾丸すでに虚し。会の浮洲七郎刀を抜て、大地に伏臥し、敵の来るを待ちけるが、大声歌て曰く、死去元知百事空、只恨不見九州同と、砲撃の間に聞ゆ、衆皆快と呼ぶ。
 使者来りて会兵を還へさしむ。是時に當り、前岸山崎の砲台、俄然砲を発して、先づ橋本を襲ふ、桑名兵叱咤して之に応じ、壁に據って之を禦ぐ、八幡の兵大に驚く、西軍進んで橋本の背に出づ、東軍支ふると能はず、大に潰て、牧方に退きけり。
 砲台の衛兵は藤堂和泉守の家臣にして、東軍の為に砲台を守れる者なり。是より先、中根雪江は、大阪に至り登城して、永井玄蕃頭を見しに、玄蕃頭が曰く、前将軍は過日貴藩老公と約せし如く、報を待ちて上京せられんとして、大久保主膳正に先駆を命じ滝川播磨守に、奏聞書を携へしめられたり、然るに同日細川右京大夫は、兵二大隊を入京したる其後に続て、四塚に至りしも、衛兵の為に止められ、終に戦争となれりとの事なりしかば、策の出る無くして、京師に帰りけり。其折前将軍は、親書を大蔵大輔に贈られけり。其書に曰く、(中略)
 前将軍は、事の非なるを暁りて、海路東歸の御心ありしが、六日遂に御内決ありしも、秘して発せられず、窃かに松平大隈守に、八軒屋に至り、通船の用意をせよと命せられければ、大隈守は、城内を出て、櫻門に到りしに、会藩神保修理が、伏見の戦況を視察し来るに逢ひければ、大隈守は、其形況を聞て、八軒屋に赴きけり。修理は肥後守に謁して、戦状を具申し、更に襟を正して曰く、「徳川氏累代の政権を皇室に返上し給い、公議興論を以て、天下の国是を完全にし、外国の軽侮を防ぎ、邦家の強固を欲せられしは、勤皇愛国の至誠より発し給へる至大の美挙にして、大徳の包容する所、前後其比を見ざるなり、今や前将軍は、内大臣の官に在らせらるゝも、既に政権なく、又責任なし、然るに薩長其他の諸藩が、今日の政道暴戻なりとて、直ちに大兵を擁して、君側の奸悪を除かんとせらるゝ事、名分既に正しからず、臣を以て之を見れば、大政返上の結果今日の政変あるは、当然の現象にして、驚くに足らず、然るに其政変を見て、忽ち御征討あらんとは、果して何の心ぞや、今にして覚悟せざれば、幕府累代の政権を返上して、皇室を尊戴せられし大義の、水泡に帰するのみならず、名分正しからざれば、不義に陥り、独り徳川氏のみならず、土津神君の祭祀も、全きを得べけんや、臣甚だ惑へり、宜しく兵を収め、謹慎して、朝命を御待あるべし」と。辞気剴切、涙を揮うて、諫争しけり。されど城内の議論喧騒すると、恰も鼎の沸くが如く【物事が混乱して騒がしいさま】、壮士単に進軍を絶叫して、修理が言は、一人の顧慮する者なし、修理自ら禁ずること能はず、直ちに進んで、前将軍の膝下に伏し、順逆を説き、利害を論じ、速に先駆の罪を謝し、政権返上、無比の盛挙を完全にし、勤皇の御素志を貫徹し給はんことを極諫しけり
 此時に當りて、敗報頻りに大阪城に達しければ、前将軍大に驚きておもへらく、藤堂稲葉の如き、徳川氏に重恩あり、殊に此挙を賛成しながら、反覆すること此の如し、是或は錦旗を見しによるならんも知るべからず、我戦端を開くに非ざるも、天朝尊奉の意に反せりと。大目付を馳せて、諸軍に令を伝へ、大阪城に退かせられけり。
 是夜前将軍は肥後守、越中守、酒井雅楽頭、板倉伊賀守、外国奉行山口駿河守、御目付榎本対馬守、医師戸塚文海、外国奉行支配組頭高畠五郎等を従へ、此夜亥の刻、密に大阪城を出で、八軒屋より苫船に乗じ、天保山沖に進行して、攝海碇泊の軍艦開陽丸に乗ぜんとせられけり。(以下略)

 

 

※文献に関しては、管理人が現代語に近い形にするために、多少の意訳を含めて、
句読点や「」をくわえ、片仮名表記を平仮名に変え、送り仮名を追加し、読みやすい現代語の文章に改めてみました。

文中の()内は主に読み方、【】内は言葉の意味となっています。意味の不明のものや現代語約が不明のものは、原文のまま紹介してあります。
追々不明や間違い等のものについては、判明次第追加していきたいと思います。
間違い等気が付かれた方は、ご指摘頂けると助かります。