この日、慶喜等が大阪城を脱出して東歸した事が知れ渡り、諸藩兵は城を退去する。
大砲隊には負傷者の運送を命じられる。 |
【会津藩大砲隊戊辰戦記】
七日八軒屋にて林隊と合隊し、城内に入るに大手口に至るに幕軍を始め各藩の将士雑沓散乱して城外に出づるに逢う。何の故たるを知らず。本丸に入るに及で始て大樹公と共に我が公桑名公も昨夜軍艦にて江戸に引上ありしを知り、一同相顧みて一語を発するものなく失望落胆せさる者なし。惣にてして城中我が砲兵隊を除くの外人影なきに至る。此に於て山川隊長は隊員を本丸将軍御座の間に会して方針を衆議に諮う。
隊員の意見区々天下の名城を空敷捨て去る武門の恥辱而巳ならず後世何とか評せん。我が隊僅に百名に過ぎずと雖も守城数日に及ば、近国の諸藩の応援あるも知るべからず。然らざるも刀折れ弾丸糧食も尽くるに至て城を枕に斃れ我が藩の武名を後世に残すも愉快ならずやと。之を難するものは我が公未だ御健在にして東帰せられたるは前途に深謀ありて捲土重来の御胸算あるも知るべからず。況んや君の前途を見届くるは臣下の道なり。恥を忍び東帰再び大樹公の先鋒となり伏見戦敗の汚辱を雪ぐに如かしと。議論百出容易に決せさりしも多数は後説にあるを以て隊長も其議に同意引上げに決せり。其間、敵京橋口に襲来せし説あり。議を中止して防備を為す等隊長の苦心も名状すべからざるものあり。
偶、細川藩士と称する六士来て城中の混雑退散するを見て慨歎して去る。山川隊長一同に諭して我が隊も引上げに決するも城内雁木坂病院には猶多数の負傷兵を残し他は退散せりと。是情に於て忍ぶべからざる而巳ならず武道の恥辱なれば如何にもして救援したれ。
天保山沖には猶味方の軍艦ありと諸氏奮励。負傷者を介抱して城外に運送せよと。時に城内には味方の残り止まる極めて稀にして他に助を乞うものなければ、隊員各銃を肩にしたる上に戸板に負傷者を臥さしめたるを掲げ八軒屋に送り出す。其際、城外歩兵営所より発火し、折節の西風烈敷火の子城内に散し、大手門内の松の大木に火移り危険言う計なし。負傷者の運送も夜明くる頃に終りられば一同整列して東本願寺に引揚ぐ。
【会津戊辰戦争】
同七日慶喜の大阪を去るや、尾越二藩も「我より宗家に負くにあらず、宗家却て我に負けり、今は大義親を滅するの時なり」と唱え、井伊直弼の後なる彦根藩主も遂に西軍に降るに至れり、此日朝廷左の追討令を発せらる。(以下略)
【会津戊辰戦史】
城中の負傷者を中の島海軍所に送るべきの命あり、蓋し雁木坂邸病院に在る負傷者凡そ百人の看護に當る者なく、諸隊皆本願寺の我が本営に至る。故に城中に止まりたる山川隊、佐川隊及び新撰組にて之が看護をなしたるによるなり。戌の刻(午後八時)頃又負傷者を堂島の我が藩蔵屋敷及び八軒播磨屋に送るべきの命あり。是汽船を以て江戸に送るの議決せるを以てなり、人夫は本願寺本営より送るべき約なりしにより、使を遺して呼びたれども一人も來らず、故に山川隊、佐川隊の兵士にて中の島の埠頭まで護送すべく、途中若し敵兵に逢はば皆自殺するに決せり。山川大蔵隊士に傷者を護送し悉く汽船に乗せ終りて後、本願寺本営に歸るべしと命ず。是に於て傷者を板扉或は竹駕等に載せ、兵士自ら舁きて堂島の我が邸及び八軒に送る。夜半を過ぐる頃漸く終る。
此の夜廣川元三郎傷者看護主任を命ぜられ、長谷川幸助これが局吏たり、又巨海源八郎、牧原源蔵、簗瀬武四郎、三浦重郎、両角千代治、杉浦八太郎、萱野勢治、岸直次郎、神田小一郎、津川主水、西村延八、平田一郎、服部安次郎、今泉勇蔵、小櫃弥市等は傷兵を江戸に護送すべきの命あり、(中略)直次郎、勢治等議して曰く、「傷兵を舟に乗せて出すに若かず」と。
直次郎、勢治、小一郎並に鈴木幸蔵川岸に至りて舟を索む、元来中の島には小舟を置くの約なりしに1隻をも見ず。
偶々市人家財を舟載して難を避くる者連接すれども、皆婦人のみにして舟子在らず、特に夜間中のことにて頗る困難を極めしが、幸にして舟子の在る舟を発見し、直次郎等事情を語りて乗舟を懇請すれども、舟子は家財諸器を積載したるを以て之に応ぜず。直次郎固く請う。舟子乃ち家財を他の舟に移し、直次郎等を乗せて堂島蔵屋敷前に至る。
直次郎厚く之を謝し遂に邸中の傷者を盡く舟に移すことを得たり、直次郎尚奔走して汽船に送るべき海舟を求めんとしたるも市人皆去りてあらず、仍りて更に舟子を案内として普く之を求めたれども得る能はず、是に於て直次郎止むを得ず先に乗る所の舟に復りて具さに事情を語る。為めに傷者意気大に沮喪す、乃ち直次郎、勢治復た出でて海軍所の宿舎に至り、吏に面晤し懇に汽船を借り入れんことを請う。吏曰く、「職務の管掌は各定まれる所あり汽船のことは余等の知る所にあらず」と。直次郎怒りて曰く、「我が藩士の多く死傷したるは一に幕府の為めに奮戦したるに由れり、然るに今此の窮迫に臨みて何ぞ其の冷酷なるや、今此の傷者を放棄して顧る所なくんば只死あるのみ」と辭色稍ゝ獅オ、吏曰く、「更に商議の後に答えん」と内に入りたるのみにして復た出でず。傍人曰く、「此の家は船戸なり」と、乃ち主人を呼びつけて海船を僦はんことを謀る。
主人曰く、「川舟の運送を業とするのみ海船は我等の及ぶ所にあらず、然れども幸に幕府勘定奉行小野廣胖在り、海船の事を議するが如し、暫く待つべし」と入りて之を告ぐ。良ゝ久しうして廣胖出で曰く、「貴藩の士幕府の為めに奮戦して多く死傷す。感嘆に堪えず、我等は傷者船送の事は預かり知らざる所なりと雖も此の切迫の時に望み傍観すべからず、今幕府歩兵の傷病者多く此に集り発船を待てり。假令此の輩を残留するも貴藩の傷者は先つ汽船を以て江戸に送るべし、必ず憂うること勿れ」と辭氣甚だ懇切なり。初め直次郎、勢治若し事成らずんば廣胖を斬りて共に死せんと期したりしが、之を聞き感喜して厚情を謝し、尚懇に依頼して出づ、時に天巳に明く。
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