負傷者を幕府勘定奉行小野廣胖の厚意により負傷者準備金を貸与され、無事負傷者を海船に移した。
この日、天保山沖より開陽丸に乗った慶喜一行が江戸に向けて出発する。 |
【会津戊辰戦史】
八日朝直次郎、勢治馳せて傷者の船に復り詳に廣胖の厚情を語る。傷者皆大に喜ぶ。直次郎等曰く、「山川隊長未だ本願寺の本営を発せずと聞く、早く此の事を告げざるべからず」と、勢治、神田小一郎、簗瀬鐡馬、鋤柄主殿、鈴木幸蔵、本営に行きて之を山川大蔵に告ぐ。大蔵乃ち直次郎、勢治、小一郎、鐡馬に傷者の看護を、武四郎、主殿には林権助を看護して江戸に赴くべきを命ず。組頭佐藤織之進曰く、「廣胖と分離せば事或は難きことあらん、直次郎、勢治行きて小野氏の寓に在るべし」と、直次郎等乃ち酒肴を斎して之に贈る。廣胖其の厚意を謝し待遇頗る親切なり。直次郎等廣胖に問いて曰く、「君は何故に留るや」と、廣胖答えて曰く、「大阪の金蔵より古金四十両を斎し江戸に歸らんとす、傷者若し乏しきを訴ふれば之を貸與すべし」と。
八軒に送りたる傷者を汽船に移さんとするに亦船なくして大に困む、故に此の日早天より諸人周旋して漸くに河舟十隻を僦ひて傷者を移舟せしめ、餘れる者は人夫をして舁かしむるも尚足らざれば、付属看護者皆自ら扶け舁きて中の島に送る。看護者津川主水、今泉勇蔵、小櫃弥市等安治川橋下に下りて海船を求むれども得ることは能はず、且舟子等は皆避け逃れて如何ともすべからず。因りて八軒より來れる津川主水、西村延八、岸五郎、平田一郎、服部安次郎、巨海源八郎、牧原源蔵其の他外島機兵衛、大野英馬、南摩八之丞等も共に奔走し、姫路邸、松山邸等に謀りて之を僦ひ、漸く我が藩の傷者百人許並に新撰組の傷者を河舟より海船に移し且傷者船中準備の金三百両を分与す。
此の時榎本武揚來りて曰く、「昨日申の刻(午後四時)頃傷者を中の島に送るべきことを告げたりしに遷延此の如くなるは何ぞや」と、直次郎詳に昨夜来の事を語る。武揚曰く、「事大の齟齬せり急に天保山に送るべし、我は城中を検査して帰艦すべし」と、直次郎曰く、「余は小野氏の許に到らざるを得ず」と、武揚曰く、「然らば子一人小野氏の寓所に到り、其の他は急に天保山に到るべし」と。武揚直ちに直次郎を己が舟に同乗して天保山下に至る。たまたま大風起り船を進むること能はず、傷者の諸船も共に岸に沿ひて泊す。廣胖及び直次郎等諸人上陸し厩舎に入りて夜を徹す。
【会津戊辰戦史】
八日朝、板倉伊賀守は前将軍の命を副艦長沢太郎左衛門に伝えて曰く。「上様早々江戸御帰城遊ばされたく思し召しに付き、開陽丸速やかに出帆の用意致すべし」乗組士官驚嘆して以為く、今此の艦摂海を去らば、大阪の警備薄弱にして、大阪京軍の手に入らしむこと必せり、実に一大事たりと。太郎左衛門伊賀守を見て、此命令を一時中止せんことを説いて曰く、(中略)太郎左衛門は士官を招きて曰く、想ふに船長帰船せば、摂海を去らざるの策あらむも知る可らず。皆曰く事を構へて、船長を待つべしと。約成て水兵頭古川庄八に内意を含め、運転して徐々に天保山沖に進む。時に堺浜に失火あり。皆甲板に出て之を見る。伊賀守怪しんで曰く、「本艦今尚ほ摂海に在るは何ぞや、前将軍は帰思頗る急なり、烈風にして船を出すこと能はざるか。」太郎左衛門対て曰く、蒸気機関に懸念の点あり、為に時刻を費やせり、今より苫ヶ島へ向け航行すべしと。是に於て終に矢田堀、榎本等を見るを得ざりけり。
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