慶応4年1月9日

 天保山沖より負傷者を船に載せ、歩兵は陸行して江戸に向う。 

 外島機兵衛等は唐津藩士山田勘右衛門の屋敷に潜伏していたが厳しい探索の為屋敷を出て大阪を出る事とし、姫路藩士星野乾八に相談すると、邸内の諸物を国に送る船に乗船を許され機兵衛等は乗船する。

【会津戊辰戦史】
 九日武揚天保山に至り廣胖と懇話し、且砲台に装置したる大砲の火門に釘を打ち弾薬のボイスを棄てしむ、此の時我が傷者十餘隻の小舟に乗り來り、或は汽船に移るもあり、尚天保山下に在るもあり、其の中一隻斉藤與八郎及び新選組合せて十九人の乗りたるもの、泥沙に擱坐して動かず、時に敵兵の巡邏甚だ厳なりしかば舟中一同焦慮甚だしく、速に汽船に移らんと欲すれども如何ともする能はず、武揚、土方歳三と悠然として杯を擧げて曰く、「速に出船すべし」と、乃ち四斗樽を並列して近傍にありたる幕府の歩兵に命じて膠船を乗り出さしめんとすれども能はず、武揚大に怒り大聲叱して曰く、「汝等此の船を出すこと能はずんば悉く斬に處せんと躍りて其の船に移る。歩兵等死力を出し竟に之を出すことを得たり。乃ち深海の岸に廻して上陸し歩兵も皆上陸せしめ、其の船は馳せて傷者を正角艦に移乗せしむ、武揚乃ち司令に命じて曰く、「歩兵を率いて陸行し紀州に至るべし」と。司令曰く、「前途敵兵あらん願くば船行せん」と。武揚叱して曰く、「汝等既に部兵を有し加ふるに兵器弾薬を有すること斯の如し、若し敵に遇はば撃破して過ぐべし是汝等の職なり、此の船は傷者を江戸に送るものなり他は一人も乗すべからず。汝等若し陸行すること能はずんば速に逃れ去るべし」と。司令唯々悚服して謝す。武揚遂に船を僦ひ歩兵を乗せて紀州に至らしめ、諸般の處分を了りて小船に乗り富士山艦に移る。斯くして傷者は正角、順動、富士山の三艦に分乗せしめて江戸に送る。富士山艦長は榎本武揚、正角艦長は柴誠一郎、順動艦には艦長を缺く。船中の人皆看護歓接極めて懇切なりき。(中略)

 外島機兵衛、大野英馬、南摩八之丞、諏訪常吉等唐津藩山田勘右衛門が家に潜匿せしが、敵の捜索厳にして毎家検査を為す。故に潜匿に便ならず、暫く之を避け再び出阪せんと欲し、土佐堀姫路邸に至り星野乾八に謀る。乾八曰く、「余等皆邸内の諸物を船載して将に国に歸らんとす、子等乗船して姫路に來れ余は陸行せん」と、機兵衛等乃ち乗船す。

 

 

※文献に関しては、管理人が現代語に近い形にするために、多少の意訳を含めて、
句読点や「」をくわえ、片仮名表記を平仮名に変え、送り仮名を追加し、読みやすい現代語の文章に改めてみました。

文中の()内は主に読み方、【】内は言葉の意味となっています。意味の不明のものや現代語約が不明のものは、原文のまま紹介してあります。
追々不明や間違い等のものについては、判明次第追加していきたいと思います。
間違い等気が付かれた方は、ご指摘頂けると助かります。