慶応4年5月1日、午前6時(白坂口、棚倉口、原方口等より)進攻してきた西軍に対し、同盟軍は防戦するも、西軍の挟撃を受け多くの死傷者を出し、会津は副将若年寄横山主税、軍事奉行海老名衛門、一柳四郎左衛門、日向茂太郎等を始め食禄百石以上を29人含み二百余名が戦死。また、仙台藩も、軍事参謀坂本大炊、姉歯武之進等百五十名余が戦死した。
敗走した会津兵達は一旦、白河から会津に入る旧白河街道の勢至堂へ退いた。 |
【会津戊辰戦争】
五月朔日西軍兵を分ち、其一は薩、長、垣の兵に砲ニ門を附し黒川村より原方街道に迫り、其外は薩、垣、忍の兵及砲ニ門を以て本道上皮籠村の東方山林より分進せしめ、共に白坂口関門を距る八九丁の地点に達し頻りに鉄砲を発し来り攻む、一柳、瀬上隊之に当る、棚倉口桜町方面また戦聲起る。 鈴木、平田隊また左右より起て之を拒ぐ、於是本道方面の一柳、瀬上隊は仙の砲兵六門を以て奮闘遂に西軍を撃退して之を追ふ。時に西軍の一部、途を西方山下にとり、原方付近に退きしが、旗宿方面より進出せしもの、深く左右の森林中に潜伏し俄然起て東軍を挟撃す。退却中の西軍之を見てまた返戦す。
一柳、瀬上等三面より包撃を受け漸次退却するの止むなきに至れり。原方口また、日向、井深隊奮戦して西軍を撃退し進んで長坂山の麓に至りしが、日向弾丸に中りて斃れ仙の坂本大炊亦戦死し士気稍衰ふ。西軍勢に乗じ全軍を挙て殺到す。東軍米村の堤防に據り之を防ぎしも死傷続出、其保つべからざるを知りて退く。白坂口天神町方面亦戦利あらず、一柳、山口、今泉、井口等稲荷山に退く。
棚倉口原方街道の砲戦激烈となるや、間道の西軍俄然稲荷山に現出し鉄砲を発して來り攻む、一柳等力戦して之に當り副総督横山主税亦來り兵を励まし戦ひしが、弾丸に中りて殪る、桜町方面は遠山、鈴木、瀬上等共に殊死奮闘せしも正午頃に至り遂に敗る。西軍急追火を民家に放ちて疾く攻む、仙の姉歯武之進亦西軍の重圍に陥り苦戦の後漸く血路を開きて城に入りしが身重傷を負ふて斃る。
城兵及天神町本町の東軍は抜刀接戦、纔に重圍を衝きて會津間道及本道上を退き、原方口九軒丁に退きたる諸隊亦留まり戦ふ能はず、米村大谷地方面に退却せり。此白河城遂に西軍の有に帰す。
此戦に於て副総督横山主税、軍事奉行海老名季久、一柳四郎左衛門、日向茂太郎、小松十太夫、木村熊之丞、鈴木覚弥、唐木定次郎、赤羽衛門、林次郎、飯田初次郎、春日曾右衛門、小原巌、矢島儀右衛門、上田源之丞、加藤左一郎等を始めとして、食禄百石以上のもの二十九名外士卒合してニ百余戦死せり、仙藩亦将卒百余人を失ふ、西郷頼母乃ち敗兵を収めて勢至堂に退く。
【会津戊辰戦史】
五月朔日寅の上刻(午前四時)西軍兵を分ちて三道より白河を襲ふ。薩州五番隊、長州三番中隊大砲ニ門、大垣一中隊大砲一門、忍藩一小隊、本道皮籠村より進み來る。
薩州二番四番隊大砲一門、白河城東間道よりし、大垣一中隊皮籠村の東山林の間道より齊しく兵を進む、蘆野、太田原には忍藩四小隊を止めて之を守る。
卯の刻(午前六時)西軍棚倉口桜町方面より大砲小銃を発すること頗る烈しく、純義隊以下の諸隊殆んど危し。
乃ち鈴木作右衛門、平田弾右衛門兵を左右に分ち、西兵を包囲せんとし、兵を指揮して砲戦す、西軍原方口方面よりも急に進撃す。
日向茂太郎、井深右近等能く戦ひ、西軍少しく退く、我が軍益々進んで北(来)るを追ひ、長山の麓に至る。
西軍の伏兵左右森林の間より起り、先に敗走したる西兵返戦して三面より猛撃す、仙臺の将佐藤宮内、坂本大炊赴き戦ふ、大炊逢隈川を渡りて西に進む、弾丸其の頭を貫きて斃る、仙将瀬上主膳衆を励して戦ふ、日向茂太郎之に死す。
東軍支ふること能はず、米村の堤防に據って戦ひしも、忽ち砲兵十余人皆斃れ頗る苦戦の状あり。
部将鈴木義登は日向茂太郎の遺骸を収めて大平方面に退く、白坂口天神町の方面は西軍皮籠村より徐々に砲戦して進み来る。
一柳四郎左衛門、山口次郎※、今泉伝之助、井口源吾等稲荷山に登りて西軍の來るを待つ、棚倉口原方口の砲戦益々烈しきに及びて、西兵皮籠村ニ軒屋邊堤防の樹蔭を潜行し、稲荷山前面に顕れ、大砲小銃を連射して戦を挑む、四郎左衛門、伝之助、次郎等兵を督して奮戦す。
副総督横山主税自ら采配を振って衆を励し、稲荷山に登るや忽ち弾丸に中りて斃る。
戦ひ猛烈にして遺骸を収むるに遑(いとま)あらず、従者板倉和泉纔(わずか)に首を馘して退く、棚倉口桜町方面は遠山伊右衛門、鈴木作右衛門、小森一貫斉、平田弾右衛門等諸将殊死して戦ふと雖も遂に利あらず、仙兵は根田、小田川の方面に退き、其の他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りて収拾すべからず。
西軍、天神町口本町に在る我が兵の背後を衝く、原方九軒町の兵もまた、防戦すること能はずして米村、大谷地に向って退く、東軍敗績す。
寄合中隊頭一柳四郎左衛門、軍事奉行海老名衛門、軍事方小松十太夫、士中組半隊頭鈴木覚弥、足軽組小隊頭上田源之上等の諸将校皆相前後して死し、其の他死傷甚た多し、総督西郷頼母馬を馳せて叱咤衆を激励するも潰亂制すべからず、頼母決死進んで敵軍を衝かんとす。
朱雀一番士中隊小隊頭飯沼時衛轡を把つて諫めて曰く、「総督は今此に死するの時に非ず、宜しく退いて後圖を計るべし」と、頼母聴かず、時衛乃ち馬首を北にして之を鞭つ、馬逸して向寺の方面に奔り、滑川に至る頃敗兵集る者僅に三小隊に過ぎず。
遂に勢至堂に退く、此の日ニ本松兵七百人、及び我が藩坂十郎は一柳四郎左衛門の隊兵半小隊を率る、須賀川を発し白河に至るの途上、砲聲を聞き馳せて會戦せんとせしも及ばず、乃ち中新城に退く。
敗後仙臺、二本松の兵は矢吹、須賀川に陣し、我が兵は長沼、勢至堂、三代に退き、西軍は白河城に入り、遠く仙臺口、棚倉口、原方湯本口にい兵を配して之を戍(まも)れり。
※山口次郎⇒元新撰組三番隊組長斉藤一の事。
【白河藩御用達 荒井治良右衛門慶応日記】
丁丑 五月朔日 曇昼後より霧雨夜ニ入雨強
官軍之賊、昨夜に入って白川に攻め入り、手段白坂口、原方口、米村口、桜町口、大沼口、一円に手分可押し寄せ最様、なお九番町迄へは昨夕の内、木小屋等に潜居之者も有之趣きに相聞候に付、夫々御手配桜町口之分に者、棚倉仙家取しきり候之処声激しく打掛に付き、朝六半過ぎ、此口相破れ追々瓦解し、中町迄引上げ、上み口々なおも防戦候之処、敵麦畑、其外潜伏昨日より手配有之に付、終いに諸口とも一概に瓦解致し、九番丁東山手半腹に、しかして横山陣将討死。
惣敗走し、四ツ辻にて野田進、殿阿部藩【棚倉藩】十二三人借受終に喰い留め候に付、此口より尽引上げに相成候。
【島田魁日記】
同五月朔日暁六ツ時黒川口百姓共より官兵二千人余人押来り候注進有之、直様黒川にて戦争相始。此時敵軍大勢にて諸道より責掛け大砲小銃雨の如く打込み味方遂に敗走して仙台口、会口両道へ引上げ当隊も勢至堂にて一泊す。此日惣督横山主税討死す。
【明治日誌】
五月朔日、白川方面味方大敗、軍頭分始数百人討死す。実に遺憾なり。若年寄横山主税大将討死、首は同家の中小姓成る者、屋敷に持帰り、厚く葬られたり。
(附録 宰相公、横山家へ御入有らせられ御焼香被遊、右奥へ御目見被仰付、且つ二歳の嫡子も御召あり、上にても涙を流し玉ひ、御近習一同涙の袖を絞りしとそ。
但、此時の御先詰役北原大和君、御家老内藤介右エ門大夫。)
【仙台戊辰戦史】
午前六時西軍白坂口関門より八九丁程に來り大小砲を発すること頻りなり依て会藩一柳四郎左衛門先鋒となり瀬上主膳続いて繰出し防戦の手配をなしたり。又棚倉口桜町方面よりも西軍大小砲を放ち進み來りしかば、会の鈴木作右衛門、平田弾右衛門等左右に分れ、西軍を中に囲まんと士卒を指揮して奮戦す。本道口よりは仙藩瀬上主膳※進みて砲撃せしが西軍は街道左右の樹木を楯に取り烈しく発砲するにぞ仙兵四小隊大砲六門にて防戦せり。
此の日七ツ頃に至り西軍は街道の中へ大砲を繰出したる故、仙藩の大砲長沼沢與三郎は進みて猛烈に大砲を発射し殊死奮戦せしかば西軍の死傷多く、散乱して退却し西方の山を下り田畑の中に潜みつ。
古河原方の道を取り横合より進まんとす。又原方口にては日向茂太郎、井深右近等奮戦して西軍を撃退し進みて長山の麓に至れり。本道口の仙兵も堀或ひは木陰によりて進み彼我三、四丁程を隔て烈戦せしに、棚倉街道畑の方へ廻りし西軍は左右の森林の間に潜伏しありて、列藩兵の進撃を見るや、一時に起りて挟撃すると共に曩に敗退せし隊も引返して三方よりの攻撃となりしかば、仙、会、棚倉合併にて防戦せしも支へ得ず、四、五丁引退の上要害により砲発せしも、西軍の勢ひ猛烈當るべからず、此時仙藩の佐藤宮内、坂本大炊、今村鷲之介等は白河城西会津門通りより横合へ繰出し本天神の前なる小山へ上り戦況の視察せしに西軍曩に要地を取り、胸壁涯まで進み一手は山上に備へて発砲猛烈を極め容易に破り難きを認めたれど、戦はずして退くは本意にあらざるを以て大炊は鷲之介と議して兵を左右に分ち進藤與市をして兵を潜めて小山に上り撤兵せしめ一斉に射撃せしむ。西兵響に応じて僵るるもの數を知らず。而も西軍屈せず田圃の間に出没して迫り來る。是に於て長沼五郎左衛門、芝多贇三郎をして進て當らしむ二人が躊躇するを見て進藤與市獨り奮進して之に當る而も戦況を有利に恢復すること難きを見て大炊は兵六七人を率い奮進して阿武隈川を渡り西方へ行く数丁、銃丸の為其頭を貫通されて倒る従者之を鷲之介に報ず。鷲之介に報ず。鷲之介単身阿武隈川を越えて大炊の倒れたる場所に至り見るに未だ死せず。佐藤直之助と共に介抱して退かんとしたるに弾丸雨の如くにして起立する能はず、暫く大炊の傍らに臥して機会を伺い従者を招き、大炊を抱えて田の中を匍匐して川へ飛込み遙かに本天神の山麓に出で大炊を其の附属のものに渡せしが此時大炊は巳に落命せり。
依て鷲之介は大炊に代りて兵を指揮し更に戦場に馳せ向ひしに瀬上主膳等も兵を励まして戦ひつつありしが、間もなく會の隊長日向茂太郎も弾丸に當りて斃れしかば、列藩の兵止まる能はず、米村の堤防に據り戦ひしも、忽ちにして大砲手十余人皆戦死す。是に於て到底保つ能はざるを知り、死骸を携へ敗兵を引て退く。
又白坂口、天神町の方よりは西軍徐々砲撃し來れるを以て会の一柳四郎左衛門、山口次郎、今泉傳之助、井口源吾等稲荷山に上りて敵の寄せ來るを待ちしが、棚倉口原方街道の砲戦激烈となるに及び、間道を潜み來れる西軍突然稲荷山の正面に現出して大小砲を放ちし為、四郎左衛門等力戦して之に當り副総督横山主税、兵を励まして稲荷山に上りしに忽ち銃丸に斃る。
又、桜町の方面は会の遠山、鈴木、仙の瀬上等殊死奮戦せしも十二時頃に至り遂に敗れし為め西軍急に追撃し來り、町家に火を放つ。仙台の軍艦姉歯武之進※挺身奮戦八方に當り前後に敵を受けしも僅かに一方の血路を開き抜刀の儘跳りて白河城中丸に入りて倒る(会兵之を扶けて遁れしも遂に死す)斯くて会藩は城中に引揚げ、其の余は市街に退ぞき、紛擾して制すべからず、城内及び天神町本町の我軍は敵を背後に受け退くに路なく抜刀接戦して纔かに会津間道及び本道に引揚げたり。其の原方口九軒丁に退きたる隊も留戦する能はず、米村大谷地をさして散乱し会兵悉く潰ゆ。一柳四郎左衛門、海老名衛門、鈴木覚弥、木村熊之進、小村十太夫、上田源之丞等の諸将皆之に死す。会の惣督西郷頼母退くきて滑川に至りしが、敗兵僅かに三小隊を纏め得たるに過ぎず。遂に勢至堂に退く此日二本松の兵七百人、会藩坂十郎半小隊を引て須賀川を発し将に白河に入らんとし砲聲を聞きて走りしも及ばず、巳に白河敗潰后なりしを以て中新條に退きぬ。此役仙台軍の戦死者は左の如し。
戦死 軍事参謀坂本大炊、瀬上主膳軍監姉歯武之進…(中略)
此日会津藩士一人と仙台藩士白石某とは敵の捕ふる所となり共に松樹に縛せられしが、薩人等集まりて曰く、「一人は会賊なり、乞ふ会より始めよといふ○あり如何、衆大に笑って会藩士の前に至り、刀を抜き其の耳を切り、次に鼻を切り次に胸を割くに及びて死す、白河某之を眼前に見て、全く死を決す、時に笛聲急破、衆争ひて走り去る、巳にして夜に入りしに、老農夫あり來りて白石の縄を解き早く去り給へとて其方向を示す。白石は夢の如く、教へらるる儘、急行数里、深更に及び路に迷ひ火影を認めて民家に入れば計らざりき其の主人は曩に白石を助けし農夫ならんとは農夫曰く君其の服装にては怪しまるべし請ふ之を着せよと、農夫の襦袢を出して與ふ、白石之を着し農夫の教ふる方向に逃去りて漸く一命を全うせりといふ。
※瀬上主膳・姉歯武之進⇒仙台藩士。奥州鎮撫総督府参謀の世良修蔵を襲撃し捕えた人物。
【七年史】
五月朔日寅の上刻、西軍兵を三手に分ち、薩州五番隊、長州三番中隊、大砲二門大垣一中隊大砲一門、黒川村より原方街道に迫り、薩州一番隊三番隊大砲一門、大垣兵一中隊大砲一門、忍藩一小隊本道河籠村より進む。
薩州二番四番隊大砲一門、白川城東間道よりし、大垣兵一中隊河籠村の東山林の間道より、同時に兵を進む。
蘆野には忍の兵四小隊を留めて守らしむ。
卯の中刻、棚倉口櫻町方面より、西軍大小砲を放つ急なり、鈴木作右衛門、平田弾右衛門左右に分れて、西兵を中に囲まんと、士卒を指揮して砲戦す。
原方面よりも攻撃し来る。
日向茂太郎、井深右近等奮戦し、西軍少しく退く、東兵益々進んで長山の麓に至りしに、左右森林の間より、西軍の伏兵起り、先に走る所の西兵返し来りて、三方より襲撃す、仙将佐藤宮内、坂本大炊等赴き戦ふ、大炊阿武隈川を渡て西に進む、銃丸其頭を貫き仆る、仙将瀬上主膳衆を励して戦ふ、隊長日向茂太郎丸に中て斃る、東兵止まる能はずして、米村の堤防に據(よっ)て戦ふ、忽(たちまち)にして大砲方十余人皆死す、終に保守す可らざるを知り、鈴木義登、隊長茂太郎の死体を携へ、敗兵を引て大平の方へ退く。
白坂口天神町の方よりは、西軍河籠村邊に比し、徐々砲戦し来るを以て、一柳四郎左衛門、山口次郎【新撰組三番隊隊長斉藤一】、今泉傳之助、井口源吾等、稲荷山に登りて西兵の寄せ来るを待つ。
棚倉口原方街道の砲戦烈しくなるに及んで、間道を潜み来る西兵、稲荷山の正面に現出し、大小砲を放つ、四郎左衛門、傳之助、次郎等隊兵を指揮して砲戦甚だ力む、副総督横山主税兵を励まして稲荷山に登る、忽ち銃丸に中りて斃る、戦猛烈にして死体を携ふる能はず、従者僅かに首を擧るのみ。
櫻町の方は遠山鈴木瀬の小森平田等の諸将殊死して戦ふと雖ども、遂に敗走して、仙兵根田小田川に向て走り、其餘市街に退き、紛擾して制す可らず天神町本町の会兵は、敵を背後に受くるに至り、原方口九軒丁に退くも、留戦する能はずして、米村大谷地を指して散乱し、会兵盡く潰ゆ。一柳四郎左衛門、海老名衛門、鈴木覚弥、木村熊之進、小松十太夫、上田源之丞等の将長皆死す。総督西郷頼母退きて滑川に到れば、敗兵僅かに三小隊を纏め得るのみ、遂に勢至堂に退く。
是日二本松の兵七百人、会藩坂十郎半小隊を引て須賀川を起ち、白川に至らんとす、砲声を聞て馳するも、白川敗潰の後なるを以て、中新條に退く。是役に会兵を損する数百人に至れり。
其後仙台二本松の兵は、矢吹須賀川に陣し、会兵長沼勢至堂三代村に退還し、西兵は白川城を得て、仙台口、会津口、棚倉口、原方、湯本口へ遠く兵を置き、白昼は兵を休め、毎夜地形に依りて野営し、夜襲の変を戒むると云へり。
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