此の日、伝習隊大隊長江上太郎(=秋月登之助)と原田主馬(足軽三番隊隊長)で協議し、原田隊二百名は迂回隊、江上太郎率いる主力五百名が直進。兵の殆どを白河方面へ出張させていた大田原藩は鍋掛宿にいた阿久津忠義に使者を送り騎城を急がせ、別働隊を荒町口に配置、阿久津正右衛門の一番隊百余名を成田町に布陣させた。午後二時、江上隊は石林を強襲、経塚も突破した。
また、原田率いる迂回隊は新田口に進出し、大手門を襲い、同時に主力の江上隊も大久保門口から華陽門に突進し、本丸下西曲輪に乱入。
坂下門で烈しい戦いが行われている最中、周囲に放たれた火が東軍が密集していた曲輪の銃弾等が収められた作事小屋に移り爆発、東軍兵はこれに驚いて城外に退避、土砂降りの雨の為、銃火器が使用出来なくなり東軍は大田原城を断念した。 |
【谷口四郎兵衛日記】
二日、大田原襲撃す、途中、一里余到る所番兵あり。一戦追撃につけ入、昼二字過、城に責撃、対戦僅の間なり防敵すくなし。吾兵入場すると雖少兵たれば、ふせく不能を知り、其上砲兵余兵皆半先に、城より三里放る関屋村に行て待。左れば城を捨去らんとす、又、時刻送暮に及ばんとする之間、城外入口に備四斤砲一門を捕、自ら持帰る。夜八字過、大雨難凌難道を通り困兵関屋に宿陣す。
大田原は是迄他兵ありたるとも、此日白川城に出張※、余備兵代りて大垣兵大田原に今着陣せんとす。市に大垣の先荷あり。城下に戦い吾兵責るときは残兵休兵、市に酒食、婦を集めて遊兵の時たれば、吾兵城に入らんとするを見て、乱兵赤裸にケットーをまとい、切入あり。婦と共に去あり。多勢防出戦するなければ忽ち敗城す。吾兵は野戦するより城に戦入之安しと云笑うもあり、皆引揚関屋村に宿陣す。
※閏4月の板室の戦いでの雪辱戦を狙った東軍は、大田原にいる兵力の殆どが白河に出張しているのをチャンスと戦いをしかけたものであった。
【会津戊辰戦史】
五月二日我が軍原田主馬隊、有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)、江上太郎隊(伝習歩兵第一大隊)野際口より大田原城を進撃して之を陥る。時に白河城は前日敵の為に奪取せられ、為めに援軍大田原に來らず、孤軍籠城の得策ならざるを以て即夜関屋村に退軍し、尋いで各隊田島に転陣す、大田原の捷報若松に達するや、或が公使を遣して之を賞す。
※江上太郎=秋月登之助(変名)
【別伝習隊記】
五月二日関屋宿迄出張、夫より大田原へ攻寄候時に、大田原落城致。
【会津戊辰戦争】
二日大田原城を抜きて之を焼き白河の退路を絶つ。巳にして西軍大挙至ると聞き、退き三斗小屋を固守して八月に至る。秋月登之助隊長たり。
【慶応兵謀秘録】
五月朔日※
大田原口出張の第壱番隊、大砲隊回天隊、会藩原田主馬之助隊、保科弾正忠脱藩森要三隊、朝大田原城を攻め、板室の敗走をすすがんと、早天百村を出発し、拾町余り進む、百姓走來て敵急々に襲来ると注進す、依て之か備を為し、探索を差出し、虚実を探るの處、大田原城より拾丁余り離れ胸壁を築立、之を守る由に付、兵隊を二手に分け、其壱隊は那須野か原をさし進発す、其二隊なる者は関谷邑より進発し、四里の行程を急走して城下に至り、両口よりさしせまりし處、敵防戦彌(いよいよ)固く、須叟の戦い、我れ大砲を以彼胸壁を撃つ、進討て胸壁の下に至る、敵弾丸に被討、死者不知数、敵終に退て城中に入る、進討二の丸に入り、以之を放火し、内外戦ひ争ふ、敵は寡兵之事故、味方是に押せまり、空しく兵卒を殺し、彼の一城を取とも、元より彼の城は奥州押の城ゆへ、南道より攻る時は暫時の間に攻落すべし、先城外を放火し、彼の寄る處を払ひ、再び策を以攻め取るべし、あながちに士卒を損し戦ひ勝は、勝の下なる者也、毎には大風雨車軸を折が如し、議再攻に決す、因て生捕分捕の金穀器械を馬に付、再び関谷村に引揚宿陣す。
※慶応兵謀秘録では一日の事としているが、実際には五月二日の誤り。
※作事小屋の爆発については、大田原藩の「戦報節録」によれば、「大田原藩で放火した」と記している。又、守備兵に対して、東軍は10倍の戦力で攻撃を仕掛けながらも、夕暮れになり、雨が土砂降りとなり、両軍退却という結果に終わった。この東軍の大田原城本丸攻略目前での退却についても諸説ある。東軍側の史料には上記のように一貫して「落城」と記載され、爆発の事については触れられていない…。
【会義隊陣中日誌】※『戊辰戦争会津東辺史料集』収録
翌二日旗本三小隊は太田原在石林村と申に、賊共罷在候聞有(レ)之候に付m取懸候筈、其余旗下水隊は外道を廻り、直に太田原へ取懸候筈にて罷越候処、石林には賊壱人も居なかった為、直に太田原へ取掛け、次に原田隊も応援致、水方は廻り道致候に付、少し相後れ候へ共、一同城内迄込入、町家中城迄残らず焼払、帰懸け石上村も焼払申候、尤至急に不意を襲候儀に候得ば、少し無理にて、兵糧並大砲等も間に合ず、七つ時頃取懸け、入相頃引上夜通し関屋村迄、四里の間引取申候、百村より太田原迄は私共通候道は七里半も之有由に之在、大に一躰相疲れ候に付、塩原迄引取申候、歩兵壱人即死、旗は同壱人深手、原田隊弐人私隊壱人手負有(レ)之候、敵は何程死人之有候哉不(ニ)相弁(-)候へ共、皆以逃失候に付、多分は有(レ)之間敷と相見申候、暫時の間、如(レ)形大勝利に相成申候、畢竟不意に出候故と相見申上候、以上。
会義隊は会津藩の隊で、隊長は会津藩士野田進。野田が会義隊の隊長に任じられたのは5/10であり、この頃は隊長は野田進ではなかったかと思われる。
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