(片貝の戦い)
慶応4年5月3日、会津藩朱雀隊、砲兵隊等により片貝にて一旦尾州、高田兵等を破るも、戦勝を賀して憩う最中、新政府軍の反攻により敗走し脇の町へ退く。
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【会津戊辰戦争】
同三日払暁高田兵は小千谷本道上より、尾州の兵は坪野村より、上田飯山の兵は柏崎より塚山に向ふ、是に於て砲声山野に轟き硝煙地を蔽う、巳にして土屋総蔵の一隊西軍の側面を衝き佐川官兵衛亦一部を以て片貝を過ぎ小千谷柏崎の二道を応援し、森林中を潜行して西軍に接近し俄然之を猛射し、次て突貫し殆んど格闘を以て西軍を破りて憩ふ、暫くして尾州兵東軍の背後に出で、高田兵亦本道より逼る、東軍屈せず高田兵を蹂躪して将さに尾軍を破らんとす、偶々薩長の兵本道より突進し來り東軍の背を襲ふ、土屋隊苦戦甚だしく死傷頗る多し、於此東軍利を失ひ軍夫等四散せしを以て、将士各弾薬箱を荷き、砲車を曳き、夜半与板脇の町方面に退く、西軍之を追はずして小千谷に退く。
【会津戊辰戦史】
五月三日辰の刻(午前八時)頃西軍加州、尾州、松代、高田、飯山、薩、長、大垣等の兵來りて我が片貝の軍を襲う、一は山に循ひ一は野徑よりす、我が砲兵隊は距離を測りて砲撃す、西兵之に応じ互に戦ふことを良ゝ久し、朱雀二番寄合組隊、結義隊は撤兵と為りて銃撃す。
戦酣(たけなわ)にして六番の砲車を摧(くじ)く、乃ち一門を以て戦ふこと半時許、遂に皆銃を執って戦ふ、西兵一小隊許進撃し来る、相距ること二丁許我が兵連弾猛撃す、朱雀二番寄合組隊小隊頭斉藤清左衛門は刀を揮って前進し敵一人を斬り、横山勇、田崎繁三郎も亦首を斬ること各一級、小林操、小泉清一郎は各西兵一人を銃殺し、美藤登は敵の傷兵を斬る。
結義隊頭渡部英次郎、井上哲作等刀を揮って突入し尾州兵六人を斬り刀と銃とを獲たり、朱雀四番士中隊朝日村より來り、小隊頭野口九郎太夫、半隊頭桃澤克之丞は一番小隊を率い右側の山上に登り猛進す、佐川官兵衛自ら二番小隊を率い小隊頭多賀谷勝之進、半隊頭能見久衛之に従ひ坪野村の左側より西兵の背後を衝く、我が兵勢に乗じ吶喊して進撃す、西兵大に敗れて走る、追撃すること十余丁、砲兵隊一門司令官原幾馬、同隊甲士星野恒之進首を斬ること三級、銃及び弾薬を鹵獲す、西兵火を坪野村に放ちて走る、止まり戦う者三人、一人は五十目銃を執って射撃す、幌役木村理左衛門、朱雀四番士中隊士上島權八郎は彼に何藩なりやと問へば会津撤兵隊なりと答ふ、復た問う撤兵隊は何隊なりやと、其の言未だ終らざるに二番小隊甲士山岸六郎は彼の腋下を撃ち之を斃す、時に一人の西兵は其の側に進み首を馘して退く、其の提蘘に書して信州松代之住人前橋民部左衛門忠一と云う。巳にして敵の隻影を見ず、我が軍大に捷ち凱歌を奏して直ちに小千谷を略せんとするの意気あり、午の時(正午)餐を傳へ兵を片貝に引揚げんとして人員を點檢したるに、忽ち見る一軍か互い右側の山上に在りて八の字の大旗※を翻すを、因って尾州兵なるを知る、西兵忽ち赤白の旗幟を振りて合図を為せば、敗兵直ちに反戦し大兵之に加はり撤兵と為り吶喊して進み來る、弾丸雨の如し、朱雀四番士中隊二番小隊は左方の路傍に撤兵と為り平地の西兵に當る。斉藤清左衛門は率先して衆を激励す、西兵左側より横撃し山上よりも亦猛撃す、我が軍苦戦清左衛門戦死す、清左衛門は勇武の士なれば全軍痛惜せざるはなし、時に我が兵僅に三百而して西兵二千余衆寡敵せず、西記且戦ひ且退き全隊を片貝に収む、小時にして朱雀四番士中隊一番小隊も亦退却して本営に集合し、砲兵隊も亦片貝に退却す、砲車に属する役夫皆遁れ兵士及び兵糧方吏員等巳むを得ず器械弾薬を運搬するに至る、鎭将隊は既に五六丁前方の山上に退却し、朱雀二番寄合組隊は瓦解し、中隊頭土屋総蔵は傷を負いて僅かに免る、金田百太郎隊も亦塚の山に敗れ関原に退く、我が軍此の夜子の刻(夜十二時)頃脇の町に次す。
※八の字の大旗⇒尾張藩の合印が丸八印であった
【復古記/北陸道戦記
第七】
『井上哲作戦争日記』より
五月三日脇ノ町へ繰出し、人数は佐川隊砲兵隊金田隊我隊、関原村にて休息兵糧を用意す。
片貝村へ正四ツ時頃着、寺ヘ屯集休息、組の者一統へ酒を振舞う、兵糧を用意し一統へ申し聞き候ば、今日は初陣の事ゆえ、天晴に相働き武名を後世迄残し候様、礼を厚し申聞候得ば、一統勇を振って百万の敵も打ち破り候勢い、木沢余と一同為斥候片貝売り後の山へ罷り越し候処、敵小千谷より凡そニ千人許繰出し候に付き、すぐさま立戻リ木沢組は山の手へ陣す、渡部組我組は土屋一番小隊と合兵、小隊頭斉藤与七郎一同小村ヘ屯シ、諸木ヲ楯ニ取敵ノ襲来ヲ待居候処、程ナク襲来厳シク打掛候ニ、此方ニテモ応シ暫ク苦戦ス、一同初陣ノ事故皆々血気ニハヤリ、扨々物々シヤト大奮発、斉藤与七郎始メ渡部余白刃ヲ以飛込追掛候処、我組渡部組モ我劣ラント鉄砲ナケ捨切コミ、小村三ヶ村敵屯所乗取、尾州藩六人打取、鉄砲四挺大小四通リ分捕、其時我隊村田丹五郎塚野菊悦外山養松打死、長尾熊太郎手負ス、隊中分散ヲ集メ皆々ノ戦功ヲ称シ暫ク休息ノ処ヘ、又々敵大勢襲来リ、佐川隊ハ正面ヲ防、土屋隊ハ脇道ヲ防、我隊ハ後ヲ防候様被仰付繰出ス、塚ノ山ヘ金田隊陣シ一番ニ敗走ス、依テ山上ヨリモ敵大勢押來リ、又正面脇道ヨリモリ、凡ニ三千人計少々防戦致候得共味方忽チ敗走シ、片貝口ニオイテ又々防戦候得共終ニ利アラス敗走ス、其節斉藤与七郎敵ニ赴打死ス、実ニ此斉藤氏ハ天晴ナル勇士一統惜マヌ人無之、其外味方打死手負ハ諸隊ニテ数多有之趣ノ処不明、夫ヨリ脇ノ町ヘ引揚ノ折節雨天ニテ路悪ク、味方大ニ疲レ其夜脇ノ町諸隊交番ニ廻リス。
『朱雀二番寄合組土屋総蔵隊軍務調書』
同三日明渡り同村引取り喰事致し候処、尚又五ツ半頃押し寄せ来候趣に付き、早速村迯へ繰出し一番小隊には結義隊渡部英治郎井上哲作合兵同所右脇杉森之内へ撤兵取敷、二番小隊には左脇溝中へ同断、砲兵隊は村口正面相固め大砲仕懸け相控え居候処、無間も敵正面森之内より砲発致候に付き、是より大砲にて相応じ、夫より砲戦数刻を移大戦に相成候次第。
一番小隊には前分之通取敷砲戦罷り在り候処、敵兵一小隊程進撃、其間弐丁程是より厳重打立、其節斉藤清左衛門※奮然揮刀兵隊に抽て相進候付、隊下一同烈戦敵の屯所村へ放火致し候に付き、彼敗走致し味方一同追い討ちに及び候処、敵遁走に付き、兵糧等相用居候内、敵兵尚又正面より押し來、其間壱丁計相隔り、忽ち敵赤白の旗を打ち振り撤兵取敷候付、不取敢清左衛門自身元込筒携え、真っ先に相進み兵を励まし奮激烈戦に及び候へ共、敵は新手を入替え、味方は疲兵之上前後に敵兵相迫り難対、遂に清左衛門討死致、其節隊長総蔵義引上之号令相懸候に付、追々脇町迄引揚げ候。
二番小隊の義前文之通取敷伏兵の形に致し、敵誘い出し討ち留め候手筈にて、小隊頭三瓶振助独身畔道へ出元込筒にて打立居候処、敵兵追々に繰出し左脇の森へ相進み候に付き、是よりも進撃候様号令の下一同正面より川に添って進撃に及び、敵陣乗っ取り追撃致す、敵敗走に付き兵糧相用居候処、右同断、右戦争の節討死三人(小隊頭斉藤清左衛門、須貝在蔵、熊澤平助)、手負七人(中隊頭土屋総蔵、堀常蔵、吉川五三郎、土方信之助、同四郎、吉越中、坂田清蔵)。
※斉藤清左衛門⇒清右衛門の誤り(朱雀寄合二番隊小隊頭、130石、享年28歳)
『朱雀四番士中組佐藤義登軍務調書』より
未明朝日川を渡り、寺中に入って暫く憩、出て四五丁を行って、忽ち大砲の発するを聞く、小銃又発す。
片貝に入って坂井源八郎に会して戦巳に結ふ、然れども兵少なく応援を乞う、依って本隊の兵を分って、一番小隊は野口九郎太夫、桃澤克之允引て山に登る、二番小隊長自ら引て田畔に出つ、多賀谷勝之進、能見久衛従う、進んで敵を撃って大に敗り、下の村に至たり、首級五つを得たり、敵尾州、高田、松代、飯山等の諸藩たり、一番小隊は山に登り、又二つに分って、野口九郎太夫其一を引、臣其連たり、進んで敵の横合に下り、土屋総蔵隊に応援して敗走の敵を追打、首数級を得たり。
小銃等の分捕有り、兵を引て本隊佐川の本陣に会集して、勝戦を賀し、各少暫休息す、然るに又忽ち傍に敵有と、又右の山上に兵有り、旗色変せり、隊長佐川官兵衛、小川求馬、飯田秀三郎、臣等に命じて斥候をたらしむ、途に四方より敵起って進みかたく、是を樹下にさく、本隊敗して又爰に至る、臣等三人進んで山上を見るに、果して尾州の兵たり、返って野口九郎太夫に告ぐ、隊長自ら兵を引て、山上の敵と戦う、桃澤爰に傷つく、然るに今日打入る味方僅か三百、敵二千余りの兵を以て、遠く四方を囲み鏖(みなごろし)にせんとす、元來衆寡敵し難く、さくるに道なく、漸くに一路を得て朝日村に退く、川を渡って人員を改むるに、散乱して不全、関原に入りて休息す、金田百太郎塚ノ山より同く敗して爰に至る、同夜半脇ノ町に入って宿す。
番兵を多く出して守、敵不來、討死二人(小川求馬、薄(臼)井鉄太郎※)、手負一人(半隊頭桃澤克之允)
※薄井鉄太郎⇒(臼井鉄太郎の誤り、朱雀士中四番隊附足軽、享年20歳)
『結草録』より
三日黎明、番兵のみを止て片貝駅に退き、食を喫す、五ツ半時頃、敵進來の告あり、直ちに出兵、敵、麓道野道の両道より來るを見、距離を量って我隊より先づ大砲を発射す、敵応戦し、互いに樹木或は堆土に據り砲戦、偶砲車を損し、一門にて戦うこと半時計り、砲隊大に苦戦、依って砲車を引抜き、手銃にて進戦す、時に佐川隊來り加わり、一小隊右の山手へ登り、一小隊は隊長引率して、ツホノ村左り、敵の背面に出応援、我兵力を得奮進、敵少しく卻くを見、一同進戦、敵大敗走、追うこと拾丁余、此時原幾馬、星野恒之進、敵三名討取斬首、手銃及び弾薬を分捕る。
佐川隊甲士岸六郎、松代藩前島民部左衛門忠一を打止む外、結義隊、土屋隊にて敵六七名討取る。
乃ち兵を纏め、暫く休息、午後忽然片貝右山上に、丸に八の字旗相顕るや否発砲、我兵応戦、敵の敗兵又返し戦う、継て大兵來り加る、我諸隊追討の場を退く、敵尾撃、味方防戦半時計り、我総兵大いに疲る、諸隊連々敗退、砲撃の少く消するを以て、予、市岡氏と本営に至れば、陣将巳に退くを聞き、又陣所へ返る。途中我隊又退き來るに逢う。乃ち共に退き、佐川隊長半里程にして、陣将は朝日の渡口にて諸隊を待つ、其夜四ツ半時頃、脇ノ町駅に至りて宿す。土屋隊は何れへ敗退せしや否を知らず、後水原迄退陣すと聞く。此日死六人(斉藤清右衛門、須貝在蔵、熊澤平助、村田三五郎、塚野菊悦、戸山良松)、傷五人(土屋総蔵、桃澤克之允、堀清吾、長尾熊太郎、小川求馬※)
※小川求馬⇒負傷の後死(朱雀士中四番佐川隊士、享年23才)
『岩村高俊事蹟』より
五月三日、敵兵片貝に来襲するの報ががり、乃ち信、尾ノ兵【尾州藩兵】を先鋒とし、高俊別に松代、飯田の兵ニ小隊を率いて之に続く、斥騎来報す、山上に敵あり、必ず官軍を横撃するならんと、地理も亦然り、故に使いを小千谷に発し、其事由を告げ、進路を変じ、直ちに山腹に登らしむ。
山上の賊、我兵の進むを見て、忽ち下撃す。弾丸雨注、我兵奮戦稍久し、既にして片貝の賊軍敗走す。山上の兵之れを望んで忽ち潰ゆ、我兵逐て塚ノ山駅に到る。賊兵終に信濃川を渡り、妙法寺村に逃る。日既に暮る。戍兵【守備兵】を置き、其夜小千谷に帰る。初め片貝の戦い、先方信、尾の兵先敗る、薩、長の兵続進して之れに勝つ、各軍、因って小千谷に帰る。
『榊原政敬家記』より
翌三日黎明、若狭隊総人数出張、鴨ノ巣村迄繰込、軍議の上、若狭隊三手に分配、先鋒に相進み、尾州、松代勢一同、直ちに擣賊巣及烈戦候共、片貝村山之手據要地相拒み、大小砲頻りに打出し、一時蹂躪も難相成候に付き、傍小村を放火し、少々揚取、賊を引掛候處、兼て相約置候尾州勢横合より打掛、本道よりは新手之薩、長両藩、並びに諸藩一同、若狭手も直ちに守返し、烈数及進撃候處、賊兵敗散之色相見候に付き、尚戮力奮戦、終に攘巣窟候。
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