▼北越方面(雪峠・芋坂の戦い) ▼日光口方面(今市の戦い)


慶応4年閏4月26日(北越方面)

 雪峠・芋坂の戦い
 小千谷の南方にある雪峠にて陣を敷いていた今井信郎等率いる衝鋒隊の中隊80名が、侵攻してきた新政府軍約八千の大軍相手に地の利を生かし、一時は押し返している。

 結局、夕方となり勝敗は付かず、夜半に敵の別働隊の迫り来るを知り、衝鋒隊は撤退した。

【若松記】

 閏四月廿六日辰ノ刻頃、真人村【現小千谷市】より敵雪峠を襲う、衝鋒隊一手にて数刻戦い、既に敵の三番手迄追い返し候由之処、敵より雪峠陣後へ不意に来、敵勢強く終に妙見村へ引取る、其日桃沢手にて討死一人手負二人と承候。


 

【会津戊辰戦史】

 閏四月二十六日朱雀四番士中隊(佐川)加茂を発し三條を経て大面に至る、偶々斥候佐藤義登、上島権八郎小千谷の急を報ずるを聞き疾駆して見附に至る、此の日大雨泥深く、行歩頗る艱み全隊疲労す、因って此に宿す。砲兵隊は新津を発し加茂に宿す。

 朱雀二番寄合隊(土屋)は小須戸を発し三條に至り、小千谷の形成急なるを聞き徹夜軍を進む。
 東軍衝鋒隊進んで雪峠に至り松代の斥候に遇い、桃沢彦次郎刀を揮って其の一人を斬る、辰ノ下刻【午前九時】長州、松代、高田、尾州、大垣、松本、須坂、飯山等の兵数千來り攻む。
 東兵險に拠りて能く戦う、西軍兵を山上に登らしめ東兵を横撃す、東兵退いて芋坂に拠り山砲を発して松代の兵を撃つ、西兵火を民家に放ちて退く、会ゝ小千谷方面東軍利あらず、我が総督一瀬要人長岡に退くと聞き、兵を小千谷に遣わし砲銃等を舟載して妙見に至り、一瀬と会し戦略を議したるも、古屋佐久左衛門等の議容れられずして宮本に移る。(同七年史)

 此の日長岡藩相河井継之助総督と為り、兵を出して其の境界を守らしめ以て封内の人民を安撫せんとし、本営を摂田屋村に置き、大隊長山本帯刀の率いし一大隊を城南に出す(以下略)

 

【北国戦争概略衝鋒隊之記】

 二十六日、斥候進みて雪峠に松代の斥候に逢う。前田刀を奮って一人を斬倒し、一人を生捕り、残兵を追撃し進みて戦いを交す。南軍は薩、長、尾、大垣、信州十二藩の兵隊八千余、我は中隊八十人余人にて朝九時前より夕五時過ぎまで血戦、勝敗決せず。我兵二十余人、山の中腹に攀じ登り雲霞の如き南軍を狙撃す。南軍また我に対すせる右手山に登りて乱射す。我兵大砲を進めんとし、路嶮にして能はず。依って芋坂に退き、壁に入り伏して怯を示す。敵競い進むを三、四百歩近づけ霰弾を発し草奔中より狙撃す。南軍驚き乱れ真田の紋【松代藩の紋所】付きたる大隊旗を捨て崩れ走り、坂下の民家を焚て退去す。我兵疲れ日全く晩るを以て追はず。番兵を厳にし夜襲に備ふ。

 夜八時過ぎ、総督より飛翰来り、南軍松ノ山間道より塚の山に出るの間、速かに引揚ぐべき旨を報ず。衆大に駭(おどろ)き、疲兵に大砲を曳かせ弾薬を負せ、雨を冒して夜十二時過ぎ小千谷に着なすに、最早陣屋を棄て一瀬要人を初め会兵尽く長岡に走り、残留する者一人なし。

 総督古屋佐久左衛門一小隊を率い来れども、地理悪しく大軍を防ぎ難し。前田涙を揮って総督に計を問う。諸口に備へたる大砲四門、其外小銃、幕、雑具等会兵の捨て去りしを船に積入れ、陣屋を掃除し、火の元を戒め兵を纏め船に乗入るに、市民皆川傍に出、酒肴を送り涙を流し別れを惜しむ。

 暁五時頃、妙見に渡る。一瀬要人に大砲其他小千谷より持ち来りし器械を送り戦略を議すに、其頼むに足らざるを知りてまた河井継之助と議し宮本に転陣す。楠山兼三郎は会藩と不快を生じ故国に辞して還る。

 

【薩、長二藩戦報節録】復古記十一巻収録

 閏四月廿六日暁、尾州、松代、松本、高田等の兵千手より小千谷に進む、賊雪峠の險に拠り、山腹に砲台を設けて防御す、官軍四ツ時前より七つ半頃まで攻撃、松代の兵峰踰【越す】候故、賊敗走、山上より大砲を発し候得共、官軍終に山上に押登り、賊小千谷の方に走る。 この時夜五つ時也。

 

【徳川義宜家譜】復古記十一巻収録

 閏四月廿六日暁、千手宿を発し、四半時頃全軍真人村へ著陣、即刻、筑摩川左側通路へ斥候を差出、発砲為致候處、賊徒よりも発砲致し候付、高田の兵と牒合、右兵は山上より、弊藩人数は大砲隊並銃隊を以、坦途よりも進み、苦戦仕候處、弊藩先鋒総括千賀與八郎、自ら途中に遺却有之候旌旗を持、叱咤して前頭に進み候付、山上よりも相進み、夕七半時頃迄戦争仕候處、賊徒はいそう、雪峠陣屋焼払遁走仕候付、官軍池ヶ原迄進撃、同所に滞陣仕候、最初諸隊奮戦の節は、松本勢川向へ相進、松代勢は弊藩後軍に相備、山上よりも高田勢、弊藩人数と合し砲戦仕候、弊藩人数山上へも相登り刻苦奮戦、坦途より向候兵と挟討に仕、終に賊徒敗走に及び申候、手負五人。

 ※徳川義宜⇒尾張藩主(つまり、上記文書は尾張藩の家譜)

 

【真田幸民家記】復古記十一巻収録

 廿六日、雨を衝いて千手駅を発す、道路泥濘行歩甚だ難む、真人村に至る、斥候報ず、賊芋坂の険に在りと、於此総軍警備して進む、忽ち前路に砲声あり、斥候来り云う。此を隔たる三十町許賊在り、彼の砲声は即ち我斥候より打放せしなりと。
 松本の兵、遙に期に後る、故に我兵、高田、尾州の兵と共に進撃す。此地山路屈曲、岩石崎嶇たり、賊険に拠り、砲台より頻りに発砲す、我兵進撃する能はず、即ち七番、八番狙撃隊、二番、五番小隊をして、左傍の山上へ登り、遶(めぐ)りて賊の背後に出てしむ、高田の兵及び我遊撃隊、道の右旁に転じ、河岸を進んで賊の側面を狙撃す、時に川東を進む三藩の兵、遅緩して不至、或云う、賊川を渡り東岸に出づと、衆心洶々たり、依て我三番小隊を川東に渡す、尋ひて松本の兵も亦渡る。時既に申の半牌に及ぶ、本道の軍益進み苦戦すと雖ども、主客の勢労逸懸隔す、既にして我大砲ニ門、痛く賊塁を射る。賊稍危惧の色あり、先に山上へ登る處の兵、潜然澗谷の中に下り、峭壁を躋り、危巖を攀ち、山背に出て、突然賊の右側面を衝く、其不意に出るを以て、賊不知所措、隊伍大いに乱れる、本道の官軍も亦一斉に大呼し、疾く馳て賊陣を衝突す、我藩兵先登たり、賊落膽狼狽して退走す、官軍之を逐い雪嶺に至る、先是、賊砲台を此地の険に築き後據となす、之に依り復我を拒む、鉄砲を連発する甚だし、弾丸破裂雨注して声天に震ふ、監軍我六番小隊を率い、芋坂村の賊を驅り、間道より進む、河原左京、監軍の命を以て五番狙撃隊、遊撃隊等を率い、左傍の山林を攀じ登り、之を横撃す、又我兵の先に山背より討撃せし四隊の兵をして、本堂を進み、飈馳猛撃せしむ、賊終に支る不能して散走す、遂に雪嶺の砲台を奪い、薄暮池ノ原、新田村迄追撃す。
 此夜暗黒、故に、此に布陣す、諸藩の兵も亦稍々著陣す、依て分配し、夜警を厳にす、此役屯在の賊凡二百五六十人という。殺傷若干、会津衝鋒隊の一賊を生獲し、翌暁之を斬り、首を路傍に梟す。我死二人。軍使付属小林喜五之助、大砲運夫文吾。傷二人、五番狙撃隊吉澤十介、司令加勢寺内又左衛門。

 

慶応4年閏4月26日(日光口)

 今市の戦い
 山川大蔵率いる貫義隊・朱雀二番足軽隊、第二大隊一小隊は大沢口に出陣、第二大隊その他の小隊は御料兵を小百の押さえとして残し、小百から七里へ向う。
 大沢口の侵攻早く、合撃出来ず、七里よりの兵が到着する前に大沢口で砲戦が始まり、大川・沼間が二小隊を率いて今市で戦うが敗走する。
 この戦いで、会津藩士浮洲七郎が戦死している。

【南柯紀行】

 二十六日早暁今市を攻む其手筈は第二大隊の一小隊を貫義隊と合し、大沢口に向わしめ第二大隊其余の小隊を以て小百に出で御料兵を小百高百の押えに残し置き、伝習隊は残らず瀬尾に出で大谷川を渡り七里村と今市の間に進みたり
 但し、小佐越より今市までは三里余あるを以て合撃の時刻相違し、大沢口の侵襲早きに過ぎ第二大隊未だ大谷川を渡らざる前に既に南方に当て大小銃の声聞こえしに由り、急ぎて流を渡り杉並木の間に出で大川正次郎は一小隊を率いて七里村に出で、日光より来る援軍の押さえと為り、沼間、滝川は今市にニ小隊を以て向いたり、此の戦争始まりし頃は南方の砲声は既に止みたり、今市の入口にて暫時挑み戦う中に南方を防ぎし兵は亦応援に出で来り味方少勢にて進む能わず、且つ死傷も追々出来れども援兵も之なきゆえ、苦戦不利河を渡りて引退きたり、大川正次郎の隊は日光の兵出て来らざりしを以て一戦もせず引揚げたり、但し引揚げて川を渡りし頃少し打たれる由なれども傷人等もなし。
 本日戦争味方死傷凡如左。
 即死上等士官二人 杉江某 頭取
 兵士死傷十四五名

 南方より向かいしは貫義隊を山川大蔵率いて進みしが、格別の戦争もなく敗走せり、其兵士怯懦にして用ゆるに足らずと後にて承れり、第二大隊の一小隊は道を誤り、遅延して戦いの間にあわず、
 南方の死傷 会人浮洲某即死
 兵士の死傷は数人。
 右何ヶ隊も引揚げて小佐越、栖倉に帰れり、但御料兵のみは小百の押さえに残り居れり。

 右の戦争敗績せしは戦の罪にあらず我輩謀略の至らざる所より起りたるなり、其故は第二大隊を余り分ち過ぎて勢を殺ぎしにあり、一番小隊を南方に向け、今一小隊を日光の押さえとなし直に敵に当りしは僅かニ小隊に過ぎず、南方へ分けし一小隊をも今市と日光の間に出し予備となし置かば、仮令敗るるも殿となるべきに甚だ遺憾なりと謂うべし。(以下略)

 ※会人浮洲某⇒浮洲七郎の事。大鳥軍の参謀で山川大蔵の友人あった人物。
           但し、七郎の討死は閏4月21日の事で、26日ではない。

 

【会津戊辰戦史】

 閏四月二十六日早暁東軍今市を攻む、第二大隊の一小隊松平兵庫の貫義隊と桜井弥一右衛門の朱雀二番足軽隊とを合し、山川大蔵之を率い大沢口に向い、第二大隊其の他の小隊を小百に出し、御料兵を小百、高百の後拒とし、伝習隊は悉く瀬尾に出て大谷川を渡り七里村と今市との間に進ましむ
 小佐越より今市に至るまで三里余りを距るを以て合撃の時間齟齬し、第二大隊未だ大谷川を渡らざるに大沢口既に砲声起こる。大川正次郎一小隊を率い急進して七里村に陣し、日光口の来襲に備へ、沼間慎次郎、瀧川充太郎はニ小隊を率いて今市に進んで戦う。南方砲声既に止みて西兵更に加わる。東軍兵寡く苦戦利あらず河を渡りて退く、南方の砲声早く止みたりしは貫義隊の敗退に由りしなり、我藩浮洲七郎其の他旧幕の将校二人之に死す兵を小佐越、柄倉に収め、御料兵を留めて小百を守らしむ。

 

※文献に関しては、管理人が現代語に近い形にするために、多少の意訳を含めて、
句読点や「」をくわえ、片仮名表記を平仮名に変え、送り仮名を追加し、読みやすい現代語の文章に改めてみました。

文中の()内は主に読み方、【】内は言葉の意味となっています。意味の不明のものや現代語約が不明のものは、原文のまま紹介してあります。
追々不明や間違い等のものについては、判明次第追加していきたいと思います。
間違い等気が付かれた方は、ご指摘頂けると助かります。