■白虎隊■

 

白虎隊の成立
 鳥羽伏見の戦いで洋式軍制を用いた薩長軍に破れた会津藩は慶応4年3月、これまでの長沼流から洋式軍制に改める軍制改革を行ない、これまで各隊さまざまな年齢が混在していた為足並みが揃わなかったのを年齢別に隊を分けた事により、戦力を最大限に生かせるようになった。

 白虎隊→16歳〜17歳
 
朱雀隊→18歳〜35歳
 
青龍隊→36歳〜49歳
 
玄武隊→50歳以上

 実際は朱雀隊が実戦主力隊、青龍隊は国境守備隊、玄武隊と白虎隊は予備軍として配された。

 

白虎隊と諸隊の編成
 白虎隊と一口に言っても、飯盛山で自刃した20名だけが白虎隊ではなく、全部で5隊あり、それらは身分ごとに分けられていた。

   
白虎隊→士中一番・二番隊/寄合一番・二番隊/足軽一番隊(総勢300名)
   
朱雀隊→士中一番〜四番隊/寄合一番〜四番隊/足軽一番〜四番隊(総勢1200名)
   
青龍隊→士中一番〜三番隊/寄合一番・二番隊/足軽一番〜四番隊(総勢900名)
   
玄武隊→士中一番隊/寄合一番隊/足軽一番・二番隊(総勢400名)

   それぞれ、士中は「上士」(襟紐制/納戸色・黒色・紺色・花色)寄合は「中士」(襟紐制/茶色・萌黄色・浅黄色)足軽は「下士」(襟制/黒襟・大和柿襟・白鼠襟・浅葱襟)で、日新館に入学が許されていたのは上士の子弟だけであったので、白虎士中隊はすべて日新館の生徒によって構成されていた事になる。

 また、戊辰戦争の際は、正規の軍以外に多くの諸隊が編成され奮戦した。→会津諸隊編成表

 

白虎隊の行動

 上で紹介したように、当初白虎隊は予備軍として配されていましたが、戦況が進むにつれて実戦に参加するようになります。まず一番最初に実戦に入ったのは寄合一番隊・二番隊でした。

隊名 人数 戦場 期間
士中一番隊 37名 外郭門
本丸
南門
8/23
8/23
8/23
士中二番隊 37名 戸ノ口原 8/22〜23
合併白虎隊 53名 西出丸 8/24〜開城
寄合一番隊 98名
*
主力
一部
*
津川口
舟渡
熊倉村
三の丸
一ノ堰
7/15〜8/25
8/27〜9/6
9/11
籠城戰
9/15〜17
寄合二番隊 62名 津川口
舟渡
三の丸
7/15〜8/25
8/27〜9/6
籠城戰
足軽隊 71名 大平口
籠城
武器等不備の為統一行動不可能
他の補助役
合計 305名

少なくなった士中隊を纏めた隊

白虎寄合一番・二番隊

 寄合一番隊・二番隊は7月15日若松を出発し、17日会津領先端地の津川に到着。一番隊はそこから北上して、赤谷で先行布陣していた上田伝次隊・遊撃隊・力士隊・猟師隊と合流した。8月14日早朝より先端が開かれ激戦を広げるが、徐々に後退し15日には新谷を占領され、16日には津川の対岸角島への進出を許してしまう。この戦いで白虎隊は3人を失っている
 寄合二番隊は津川から阿賀野川沿いに西へ進み石間で北越戦線から退いてきた萱野右兵衛、朱雀士中四番隊・朱雀寄合二番隊と合流。8月10日早朝対岸の佐取(現在の咲花)を防衛、しかし一度は西軍を撃退するも、のち一番隊のいる赤谷口の戦況が入り、会津軍が津川に後退中という情報に挟撃を恐れて16日後退し、谷沢に本拠を置き五十島まで防禦線を敷いた。しかし、18日にはあっさり五十島を抜かれる。この戦いで二番隊も3名の戦死者を出している
 寄合一番隊・二番隊共に連日諸隊と共に奮戦するも、若松より母成峠の敗戦が伝えられ、一ノ瀬総督以下の合議の結果、救援の為帰城と決まり、25日秘密裏に続々津川を離れ一路若松に撤退を始める。
 会津軍は一気に退却し、只見川を渡り対岸の舟渡に達した時、高久にいた萱野・西郷両家老より「城内は各方面より引き上げた兵で一先ず足りるので、津川防衛軍は敵を会津平野に入れない様極力防戦すべし」との命令を受け、舟渡を中心に北は山都町から南は柳津を経て三島町まで、のべ十数キロに渡って防禦線を敷き激戦が行なわれるが、越後戦線の西軍は川を渡河出来ずにいるところを、若松の西軍が舟渡の会津軍を背後から攻撃、会津軍は腹背に攻撃を受け、10日余り守り抜いた只見川防禦線を放棄し白虎隊寄合一番隊主力は喜多方へ撤退、一番隊残りと寄合二番隊は他の諸隊と共に朝立-佐賀瀬川-中田-下荒井-住吉河原を経て帰城した。この舟渡戦で白虎隊は計5名が戦死した。
    ↓
津川口・舟渡口戦線図

 寄合一番隊主力と、町野主水の朱雀隊士中四番隊、大鳥の伝習隊、西郷刑部の朱雀寄合二番隊が喜多方で戦線を張り西軍と奮戦するも連戦連敗、9月10日には高久から駆けつけた萱野権兵衛隊・一ノ瀬要人隊を加えてもやっと600名で、会津軍は熊倉で最後の背水の陣を張り、ここで西軍を撃退した。この際の白虎隊の戦死者1名(遠藤嘉竜二/遠藤敬止弟)
 この後、土佐の援軍到着の情報により寄合白虎隊を含む会津軍は塩川-佐野-真綿-一ノ堰と撤退した。
 越後口の西軍が若松に到着した事により、西軍は包囲の手薄だった城南も塞いで完全に城を孤立させようとし、会津藩はその手薄だった城南より兵糧補給や城外との連絡をとっていたので、城南を抑えられては堪らないと、城南の防禦に出る。城南守備には萱野・一ノ瀬隊、朱雀士中四番隊、青龍士中三番隊、白虎寄合一番隊他援軍隊である。9/15より激戦が行なわれ、何とか西軍を青木・中野・飯寺まで押し返したが、会津軍の犠牲激しく、一ノ瀬総督が負傷の後死去、西郷朱雀隊隊長、原白虎隊隊長、大竹純義隊隊長らが戦死。木本青龍隊隊長他多くの幹部が負傷、健在なのは町野朱雀隊隊長くらい。白虎隊も7名が戦死。隊長も原早太から望月辰太郎に代わった。
 9月17日一ノ堰で火蓋が切られ、この日会津軍は苦戦、一旦司令部は全軍を一ノ堰から下雨屋の薬師堂あたりまで下げ、そこを熊倉同様背水の陣とした。この作戦は成功し、西軍は面川・石村を経て羽黒まで押し返された。
 しかし、会津軍の抵抗もそこまでで、17日夕方福永へ撤退していった。
 一方活躍目覚しかった白虎隊寄合一番隊は、福永で上田学太輔・諏訪伊助から「白虎隊今日の戦功はその指揮宜しきを得たるによる」と感賞され、隊士は近習一ノ寄合席に昇進し、「白虎二番士中隊」と改称され、望月辰太郎が隊長に任じられた。
 寄合一番隊主力以外の寄合一番隊残りと二番隊は三の丸の守備につき、9/14の総攻撃では白虎隊は小田垣門から出撃し、佐藤半隊長と隊士2名が戦死。結果一番隊は15名に減り二番隊に合併され開城の日を迎える。

白虎士中一番・二番隊/足軽一番隊

 白虎隊士中一・二番隊は、5/27藩主喜徳の供で内藤介右衛門等と供に白河戦線の視察と激励の為猪苗代湖南の福良へ滞陣。6/5福良で会津藩兵の演習が行なわれ、後原村を経由して土津公神社へ参拝してから数日後帰城する。
 7/29容保自ら越後口総指揮の為白虎隊士中一番隊に守られ野沢へ出陣。30日野沢へ到着し越後口を督励していたが、東方面の戦況が急を告げたため一番隊に守られて帰城。
 白虎隊士中二番隊は、8月上旬井深茂太郎と石山虎之助が起草し、家老萱野権兵衛宛に出陣建議書を篠田儀三郎と安達藤三郎が提出。母成峠が破れると緊急会議が開かれ、その後各隊とも隊伍を組んで出陣し、白虎隊士中二番隊隊士達にも隊長日向内記より出陣の回章文が回ってきた。
 8/22出陣の為、容保に従い滝沢本陣に向かい、斥候に出ていた山川健次郎らの報告により敵軍が十六橋に差し掛かったとの事で、容保の見送りを受け滝沢本陣から出陣。滝沢峠を越え強清水に辿り着いた二番隊は、部落左手のこもつち山に陣をとった。
 二番隊は隊長日向内記が兵糧確保の為単身出かけ、明け方になっても戻らない為、小隊長・半隊長が指揮をとる。そして退いてきた敢死隊にそこを譲り、白虎士中二番隊は赤井谷地に陣取り敵を挟撃せんとする。翌23日早朝火蓋が切られ激戦が始まるが、この戦いで会津軍は各所に破れ約40名が戦死している。白虎士中二番隊も負傷者を出しながら退却。決戦をせんと進む隊士達の後を山内小隊長が来て「敵は大勢で、我隊は少数であれば、徒に犬死するだけである。勝敗の機をみず進んで、戦死するのは子供の了見に過ぎず」と言って指揮をとるが、ついには逸れ、嚮導篠田儀三郎が代わりに指揮をとる。
 途中酒井峰治は草鞋を履き直している間に隊と逸れる。(酒井峰治は途中自害しようとするが、百姓の庄三等が駆けつけ自刃を止めさせ百姓の子に変装させ、東山で原田隊に出会い無事入場を果たす)滝沢峠で敵に出くわし永瀬雄次が負傷、敵弾を避けながら弁天水洞を潜り飯盛山に辿り着く。
 飯盛山の中腹から見た城は、城下町の火があたかも城が燃えているように見え、士中二番隊隊士達16名は、もはや城は落ちたと早合点し自刃を口にした。これには夥しい疲労と、空腹、また斥候に行くにも農民姿への変装への嫌悪、などが重なり時期尚早ながら17名は喉をつく者、互いに刺し違える者などして自刃して果てる。そのうち飯沼貞吉だけが蘇生し、印出ハツに救われ死を免れる。また16名が自刃した後追い付き自刃した石山虎之助と別の場所で亡くなったに池上・伊東・津田の3名が追加され19名となった。
 飯盛山で自刃した20名以外の17名と小半隊長等は数隊に分かれて山道を退却し籠城戰に加わった。

 白虎士中二番隊について詳しいサイトさん→「らむねっと」サマ

 白虎隊士中一番隊は、喜徳を守って城中に居たが、滝沢本陣より帰城する容保を迎えるため、中隊長春日和泉と隊士37名は五ノ丁で容保に出くわし、容保は「我に従う必要はない。あの門をふさげ」と命じ、春日和泉は「我等はあの外郭門から敵を一歩も入れません」と答え、隊士達は三宅邸に入り防戦するが、会津軍は多数の犠牲者を出し、白虎隊士中一番隊も中村帯刀と酒井源吾が重傷を負う(この2人は城内にて治療中敵弾にあたり死亡)西軍が外郭門正門甲賀町口、六日町口、馬場口を破り進軍してきたので、白虎士中一番隊隊士達は隊長春日和泉の命で、各自本丸に入って藩主と運命を供にする事にする事となり、小隊頭中村が土屋邸に入ると、神保・田中両家老が自刃の相談中で、白虎隊士達にも自刃を勧めるが「城はまだ落ちない、殿もお城の中におられる、自刃は早い」と述べて別れ、六日町口で敵に妨げられ、やむなく鳥居町を東行中敵と交戦、隊士2名が戦死した。ここで隊を2つにわけ、春日・中村・柴田ら24名と、生田ら17名に分かれ、春日隊は不明門から入城したが、生田隊は愛宕山に登り中腹から城を眺望すると、城下町は火災に包まれ、一同は力を落とし自刃の相談をしていたが、その折、田中土佐の介錯をして首を持った家来が首を埋める為来合わせて自刃を止めたので、一同は思い直して後日引き上げてきた諸隊と供に入場した。(田中家の家来が来て止めなければ、二番隊の20名と同じ運命を辿っていたかもしれない)
 8/24士中一番隊の生田隊が入場して、一番隊長が春日和泉から飯田大二郎へ交替し、南門の豊岡社に陣して防戦につくした。
 そして、27日白虎隊士中一番隊・二番隊は合同して「白虎士中合同隊」となり、二番隊の日向内記が隊長となり西出丸の守りについた。この際、15歳で白虎隊対象外であった山川健次郎ら9名も参加する事となり計53名となった。9/5凌霜隊も西出丸の防衛につき合同で防戦にあたる事となった。

 白虎足軽一番隊は、銃がない為出陣する事ができず、諸隊の補助として父兄に伴われて従軍し、戦死6名を出している。

参考文献

「史実会津白虎隊」早川喜代次/新人物往来社
「会津白虎隊のすべて」小桧山六郎編/新人物往来社
「会津戦争のすべて」会津史談会編/新人物往来社
「戊辰戦争実歴談」酒井峰治(生存白虎酒井峰治銅像の由来より)
「決定版新撰組・彰義隊・白虎隊のすべて」新人物往来社