会津藩家老山川大蔵の実弟で、後に東大総長となった山川健次郎。
その健次郎は若い時分はなかなかのハイカラで、明治20年頃、同僚と共に乗馬に熱中していたが、ある日向島で落馬し一晩帰宅出来なかった事に懲りて、ぷっつり乗馬を止め、その代わりに自転車乗りを始めた。
この自転車で毎日小石川から本郷の大学まで2年程通ったが、ある日健次郎は自転車を本郷菊坂の交番にぶつけ、新聞記事を賑わし、またも是に懲りて自転車も乗らなくなったのである。
その後、しばらくは電車か人力車を使用していたが、漸く自動車を利用するようになったが、しかしそれも自動車屋に連絡して送り迎えして貰っていて円タク(市内均一のタクシー)を拾う事はせず、いつも高い料金を払っていた。 ところが、家族から「円タクを拾うと大変良い」と聞いて、昭和5年夏の枢密院の帰り、めったに見ないようなぼろぼろの円タクに乗って健次郎が帰ってきた。 何故こんなボロ車に乗ってきたのか問うと『途中で降りようと思ったが、運転手が是非送らせてくれと頼むから乗って来た』という。健次郎は自分の前へ一番最初に通りがかった空車であれば、ボロ車だろうと「一円五十銭で池袋まで行け」という交渉であったから、運転手は二つ返事で了承したものであった。
また、健次郎は常に万年筆を用いず、矢立を使用していた。 かつて洵夫人が「便利だ」と言って万年筆を買って贈った事があったが、その使用期間はわずか3ヶ月であった。その理由は「万年筆はどうもインクが漏れていけない」と言った。どうやら、インクの漏れるのに懲りたからであったようで、それ以来ついに万年筆にさじを投げていたらしい。
乗馬にしても自転車にしても、万年筆にしても手を出したものの懲りて直ぐにさじを投げたようである。
参考「男爵 山川先生傳」 |
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