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健次郎と富岡鉄斎の書
山川健次郎が京都帝国大学総長の兼任を解かれて大学を去るにあたり、二面の扁額を同大学寄宿舎に贈った。
これは当時京都の書家として有名になっていた富岡鉄斎に依頼したもので、健次郎はこれに対し、鉄斎を訪問して謝礼として酒肴料五拾円を贈呈した。
この頃鉄斎は書壇の最高峰にいた人物であるから、正式に揮毫料として贈呈するとなれば、かなりの金額でなければいけないだろうが、鉄斎は健次郎が親しく訪問して謝意を表した事に感激して、更にもう一枚贈呈した。

その後、健次郎が明治専門学校に寄贈する際に、元健次郎の書生であった湯田玉水書伯に玄界灘の波を描かせた。
玉水氏は連日玄界灘を良く知る船頭を雇って波を研究し、苦心の末書き上げて健次郎に呈すると、健次郎は大いに賞賛し、謝礼として三拾円を贈った。
しかし、宿代や船頭に払った代金だけでも相当な額に上り、実際には三拾円でも不足であったから、玉水氏は「先生これでは・・・」と言いかけると、健次郎は玉水が三拾円では多すぎて辞退するものと勘違いし、「まあ取っておけ」と言った。
これには玉水も二の句を継げず、潔く引き下がったという。


参考文献「男爵 山川先生傳」
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