<<back
『斗南』の由来
会津藩が戊辰戦争に敗れた後、復興の地として与えられた下北半島の表高三万石(実高八千石)は『斗南』藩と名づけられた。

この『斗南』という名前の由来には諸説ある。
有名なところとしては、
(1)『北斗以南帝州』より取ったという説。
 中国の詩文の中にある「北斗以南帝州」よりとったという。
 「北斗以南皆帝州」とは、北の空に輝く北斗七星より南は、等しくすべて帝の国であるという意味で、墳墓の地会津を失いはしたものの、本州最果ての国もまた同じく大君(天皇)の領土である。われわれは朝敵でもなければ、賊軍でもない。共に北斗七星を仰ぐ帝州の民である。というもの。

(2)斗南…「図南」の意味。
  すなわち「南を図る」という薩長藩閥政府に対する反骨精神の表れ。

また、諸説として、
(3)「斗南」とは「北斗星以南」のこと。
 晋書天文志に「相(宰相)は一星、北斗の南に在り。相(宰相)たる者は、百司(多くの役所・役人)を総領して邦教を掌(つかさど)り、以て帝王を佐(たす)け、邦国を安んじ、衆事を集むるなり。」とあり、外に斗南一人という句があり、唐書の『狄人傑(てきじんけつ)伝』より、大命を受けた友人が、老母の病に遇って進退に窮しているのを見かね、交代して引き受けようと願い出た狄人傑に対し長史藺仁基(いじんき)が狄公の賢なること、北斗以南一人のみと絶賛した事、及び宋の詩人の「葉枢密を賀して啓す」から「北斗以南一人、誰かその倫に擬せん」も含めて、「北斗以南にただひとりの人とか、天下第一の人、とか東西独歩の人といった意味になるそうである。

(4)古語の「トナミ」よりとった。
  古語のトナミとは鳥を捕まえる網の事で、旧会津藩士にとって、明治政府という新政権は王政復古というものの、実は薩長政府の成立に外ならず、その巨大な勢力の網に掛かった鳥と寓意したかもしれないとする。

(5)日本書紀の「トキツのトナメのごとく」よりとった。
  斗南領として与えられた土地は、蝦夷地の一部を含めて飛び地の連続であり、日本書紀の「アキツのトナメのごとくあるかな」と神武天皇のヤマトみそなわしの折として伝えられる言葉より、郷村高帳もなしに飛び地を与えられてしまった自嘲と呪詛と、一方、ここを拠点に真のヤマトにしてみせるというった決意をない交ぜにしたものであったという説。

 どの説にしても、山川健次郎や柴四郎等優秀な人物を多く排出した会津藩であるから、文人等が満腔の思いを秘め侃々諤々の論を展開して決定したものと思われる。


参考文献⇒「続 会津の歴史」葛西富夫著/「みちのく逸聞」大庭茂・神亮一著
<<back